ため息俳句 兄自分妹
自分には、兄と妹いる。つまり、次男坊である。
両親は、よく働いたが、貧しかった。貧しいとはいえ、家族五人肩寄せ合って暮らした。一度としてこの家族の一員であることをみじめだなどと思ったことはない。
しかし、年月が経ち、兄自分妹のそれぞれが離れて暮らすようになると、少しづつ齟齬が生じてきた。そのうち互いに距離を感じ始めた。両親を思う気持ちは三人に変わりなかったが、親と同居する兄と家を出た自分と妹、そこには現実的面での食い違いは徐々に広がっていった。
そんなことで、両親が亡くなると、自分と妹との関係は変わりなかったが、兄とは疎遠になった。
ところが、昨年兄の連れ合い、つまり義姉が大きな手術後に、施設に入所するということが起きた。兄の一人暮らしがはじまったのだ。
このことをきっかけに、兄妹三人がまた会うようになった、会えない期間は電話で声を掛け合ったり、要請があれば手助けしたりと、いわば、関係が復活したのだった。
昨日も兄の住む実家で、二時間ほど話し込んだ。兄自身も身体を壊して、歩行ちょっとしんどいのだ。独り暮らしであるが、近所に長女がいるので、日常生活上の支障には何とかやって行けている。
その兄と弁当の昼飯を食べながら、来し方行く先を、思いつくまま話し合うのだ。三つ違いだが、二人とも老いた。子供の頃は子供なりのたわいないやりとりだったろうが、今が老人兄弟の四方山話だ。互いの惚け自慢である。
妹は、未だ勤めに出ているので、自分のような暇人ではないからちょいちょいは顔を見せられないが、電話は自分よりずっと豆にしてくる。
この状態、悪くない。
お袋の口癖は、「兄弟仲良く」であった、だが、続いて「孝行尽くせ」などとは、云わなかった。
そういえば、昨日の兄と話題に出たのは、味噌の握り飯のことだ。
この北埼玉から、上州の辺でもあったろうか、握り飯を生味噌で握る。塩の替りが生味噌なのだ。いつも忙しかった母親は、遅くなりがちの食事時に、腹をすかせた子どもたちのしのぎに、この味噌握りを作ってくれた。その思い出話であった。ガキはすきっ腹なら、炊きたてごはんで握ってくれても、冷や飯であっても、どっちでも、旨かったのだ。それをまず腹に収めて、食事の時を待ったものだ。