ため息俳句 煮凝
煮凝は、懐かしい。
貧しいながらも子供達には腹一杯に食べさるというのが、母の信条であった。
料理には腕に覚えのある人で、賄いの仕事を頼まれて働いていた時期もあった。
冬のなるとよく鱈のあらを煮たのが食卓にでた。鱈に限らず様々な魚のあらや鮭の頭なんぞがおかずになった。
いうまでない、安く買えたからだ。
それが、旨かった。
腹一杯食えた。
鮭の頭というのは、塩鮭の切り身をとった残りである。その頭をこんがり焼いて、骨に張り付いた肉の部分を剥がすように、掘り出すように食べるのであるが、楽しかった。今でも、時折スーパーの鮮魚コーナーなどで見かけると、買いたくなるのだが、・・・。
さて、鱈のあら煮であるが、鍋に残ったものが一晩過ぎると、煮凝に変わった。
それが朝飯に出てくるのが、うれしかった。暖かい飯に煮凝を置くと、たちまちに解けて白い米粒の間に吸い込まれゆく、その瞬間を逃さずに食べるのであるが、煮上がったばかり出来たての時とは違う美味さがあった。
あの煮凝が懐かしい。
煮凝の画像が無いので、美味しそうな塩おむすぶの画像を拝借した。これまた、懐かしい。
煮凝や湯気立つ飯にのっけたら 空茶
そういえば、この地方では塩むすびも食べたが、もっとよく食べたのは味噌にぎりであったような気がする。味噌でと云えば焼きおにぎりが一般的であるが、そうではなく生味噌を付けるのである。
これも懐かしくて、炊きたてで藻、冷や飯でもよいのだ。