見出し画像

ため息俳句 沢庵のことなど

 今朝は、久しぶりに寒さがぶりかえした。
 我が家の垣根には山茶花が混じっている。これが咲き出すのが周辺のお宅に較べると遅いのだが、・・・、咲いていた。
 山茶花の蕾はいかにも固そうで、なかなかに咲きそうもなかったのだが。

山茶花さざんかつぼみ三夜四夜みやよや明けまでは


 さて、沢庵たくわんにする大根干しを今日からする。例年より大分遅れている。これでは年内の漬け込みができるものか怪しい。かといって、畑にはそれ用に栽培しているのだから、放置できない。
 年々、沢庵は不人気になっている。子や孫もほんの数切れでもう結構という。どうやら丼物の付け合わせの小皿にちょこっと箸休めにという扱いの食べ物らしい。
 水上勉の「土を喰らう十二ケ月」というエッセイ集が、沢田研二主演でしばらく前に映画化された。その原作となった本から、自分はなぜ野菜を自給するのかということ、そこで採れたものをどんな気持ちで食べるべきかという二つで影響を受けた。であるからすぐさまに映画も見たのだが、そこで丼飯と山盛りの沢庵のみの振る舞いの昼餉というシーンがあった。それをこれこそ原風景としての食生活だと感じたのであった。
 さて、飯に沢庵さえあれば一食済むというようなことは、昔話には聞いたことがあった、自分にも経験はない。だが、しかし鰯の干物に山盛りの沢庵、それにみそ汁がつけば、現在だって立派な食事である。加えて生卵をざっとかけて食べるなら、豪勢なものだという強がりだって通じる。塩分が過剰で体に悪いなんてどの口が言うのだ。我らの二代三代前までのご先祖さんはみなそういうものだ。「沢庵、ポーリポリ、お茶づけサーラサラ」と、飯に茶をかけて、沢庵をおかずに腹に流し込むというのは、貧乏人の伝統食といえるのではないか。
 そういうわけで、沢庵がいかに不人気になろうが、これからも漬けることを止める気はないのだ。

大根だいこ干す風なきはよし古き人



 例によって、話が妙の方へ進んで、しまった。
 ついでに脱線すれば、毎朝届く新聞を開くのが憂鬱になってきた。世界は何種類もの「正義」が乱立して、不条理な危機に覆われている。我が国は社会も政治も疲弊して、一昨日の首相会見など何を云ってるのか、全く実効性のかけらもなかった。そんなこんなで、呑気に俳句などひねっていてよいものやらと、時々思うのだ。
 大体、俳句なんてもの小さな器であるから、何でもかんでも盛り込むことなんてできないのだと、誰かが言っていたような気がする。季節季節の景物を心向くままに五七五に詠み込んで楽しむというのが本筋であると。
 まあそんなものだろう。なんやかんや言っても、結局その辺りにかえってしまうのだろうか。
 それじゃあまりにつまらない、似非俳句レベルの分際の己ではあるが、とにかくじっくり考えてみよう・・・と思うのである。