ため息俳句 居眠り
成人の日である。
当地は快晴。
今日は、何も予定がない。
まあ、今日はではなく、今日もであるが。
仕方なしに、pcを開いてみた。
スポテファイで、小野リサのプレイリストを聴きながら。
そうして、今窓の外で甲高い鳥の声が聞こえたような気がして、目覚めた。
そう、椅子に座ったまま、いつの間にか居眠りしていたのだ。
居眠りというのは、別に老化現象というわけでもあるまい。若い頃も盛んに居眠りしたものだ。
学生のころ、その分野ではレジェンドともいえる老先生の講義中、こともあろうに、寝込んでしまったらしい。その姿が先生の目に留まったらしく、寝込んでいる自分に何かお小言のことばをかけられたらしい。それで、どういうことか気配を感じてか、朦朧としながら目覚めると、隣の見知らぬ学生が笑いをこらえているような表情で、自分の顔を覗き込んでいる。その様子に先生はさらに何事か、おっしゃった。それが居眠りしていた自分に向けての一言であると、はっとして気付いた。が、最後に先生が何を云われたか、・・・覚えてはいないが。
先生は、何事もなかったように講義を続けられ、自分と云えば授業時間中顔をあげられなかった。
問題は、次週の講義である。どんな顔をして教室にゆけばよいのか。大いに悩んだのだが、・・・どうしたか今は覚えていない。ただ、単位はいただけたのだから、そんな間抜けな学生ことなど、気になされなったのだろう。
立ったままの居眠りということも、身に覚えがある。
中でも、つり革にぶら下がって眠るというのは、今思えば哀れなものである。
行き帰りほぼ二時間を要した。つまり、24時間の内の6分の1を通勤の移動時間で費やしたのである。
疲れ果ててということもあり、苦手な酒に酔っぱらってということもあり、ただ寝不足という日もあったろうが、吊革にすがって立ちづくめで寝たのである。傍から見れば、みっともないものであったろうが、・・・。
眠れない夜は悶々と時を過ごすのであるが、通勤電車の吊革に手をかけたとたんに眠りに落ちるというのは、見ようによっては、人というもののおもしろさではあるし、やっかいさでもある。
どんな風であれ居眠りというのは、まことに心地よいものなのだ。しかし、時と場合によっては、大きな失態となってしまう。命にかかわる事故につながることもある。
こころしなけばならないのは、言うまでもない。
にもかかわらず、今の自分はまったくのお気楽である。うっかり居眠りしても、叱るのはだいたい古女房だけだなんどと、高をくくっている。こういうのが、危ういのだ。
居眠りの醒めて日向は陰りたり 空茶
居眠りの夢に幾たび忘れ物
居眠りて川遡る夢をみき
なんとやら涎垂らすに目覚めけり
窓日南Bossa Novaである夢心地