心の浮輪のさがし方 2
高垣忠一郎さんの本「心の浮輪のさがし方」の続き。
印象に残った記述を抜粋し、感じたことを残しておく。
感情を成仏させる
つきあうのがいちばんむずかしい相手は、実は自分自身ではないかと感じてしまいます。自分のなかに生じる感情は、自分について何ごとかかを告げ知らせるために心から発せられるメッセージです。ですから、自分自身と上手につきあうためには、その感情を無理に押さえつけようとせずに、じっくり傾けることが大切です。そのメッセージを聴きとることができれば感情はつとめを果たして成仏しますが、むりやり押さえつけ、ねじ伏せようとすれば感情は抵抗し暴れます。
自分自身をつきあうときにも、まず自分の心に耳を傾け、心が何をいおうとしているのかを理解しようとすることが、自分自身とのよい関係をつくる最上の手だてなのです。
分かっているようで分からない自分。
人生で一番長く付き合う自分。
湧き出てくる感情を否定せず、自分自身と上手に付き合っていくことも練習なのだ。
大人から「そんなこと言っちゃダメ」「そんなことしちゃダメ」と言われた幼い子は「そんなことを思って行動した自分がダメ」だと感じる。
「そんなことを思ってしまうのはいいのだけれど、言うのはダメよ/するのはダメよ。そういう時はこうしてみよう」などと諭されれば、自分を否定せずに済むだろうが、そんな丁寧な言い方で教えてくれた大人がこれまでいただろうか?どこかにいただろうか?
感情を成仏させるのも生きる練習なんだよ、と子供に伝えていきたい。
安心して苦しみ、共に悩める関係
いま私たちは苦しみを共有し、共に悩む関係をどれほど持てているでしょうか。人生経験の豊かなおとなでも、苦しみをまともに向き合い、心にそれを抱え込んで悩みながら解決を目指すことは相当にしんどい仕事です。誰か苦しみを共有し、共に悩んでくれる人がそばにいてはじめてそれが可能になることも少なくありません。
私たちは苦しみを取り除き、悩みをなくすことが重要だと考えがちだ。だが、どこまで苦しみを取り除いても悩みをなくしても、絶対になくなりはしない。であれば「安心してしっかり苦しむ」環境づくりに努めた方が、長い人生によさそうではないか。
安心感の欠如
「自分が自分であって大丈夫」という言葉は臨床経験から生まれた。
(中略)
自分のありのままを周囲から受け容れてもらえるという安心感や信頼感を欠いている。自分の思ったことや感じたことのありのままを表現すると、何かが壊れ、自分の居場所がなくなってしまうのではないかと脅えている。その何かはたとえば自分の家庭であったり、「よい子」としての自分のイメージであったりする。
自分のありのままを周囲から受け容れてもらえた子供など、いるのだろうか。
周囲の反応が読める子であれば、微かな変化を感じ取ってしまう。そして適応力のある子であれば、周囲が求める/期待する自分像に自分を近づけることができてしまう。よい子は「よい子になれるセンスと行動力があった者」にしかなれないすごい存在だと言える。
だから、自分のありのままを周囲から受け容れられたと感じられる能力は「鈍感力」と比例している。受け容れられたというより諦められた。干渉がなくなる分、期待がない分、ラクなのだ。
そもそも安心感の欠如が問題ではなく、安心感欠如は当然であるという理解をした方がよいと感じる。その上で子供が安心感を感じられる場面を増やしていくこと、積み上げていくことが親や大人の仕事なのだ。
大人自身の問題を棚上げせずに
今、親やこの競争社会のなかで、親や教師自身が自分の価値を見いだせず、空虚さや孤独感を抱いて生きている状況があります。その空虚さや孤独感を、他人を支配し、所有することによって埋め合わせようとする関係が、大人社会に深く浸透しているように思います。子どもにそのしわ寄せがくることになります。
最終的に子供の問題に見えているが、実のところ大人の問題なのである。問題が最初からあるのではなく「これは問題だ」と感じる人が存在するから「問題」が生まれる。そう考えると大人が問題と思うネタを増やすから「大人の価値観から生み出された問題」が存在する。子供自身がもつ「本当の問題」に加えて。そうやって「大人の価値観から生み出された問題」の対応に子供たちは追われていく。忙しいだろうし疲れてしまうだろう。子供たちが疲れているのは、大人が次々と生み出す問題にもぐらたたきのように対応しているからかもしれない。
まず、私たちの価値観から子供に「問題を押し付けていないか」立ち止まる必要がある。そして「自分自身の問題を棚上げしていないか」チェックが必要だ。もっとも浮輪を必要としているのは大人の私たちかもしれないのだから。
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