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うそ

「人間がキライ」

そんな告白を担任の教師からされたのは高校卒業前、最後の学級便りの紙面だった。

当時主流だったコストの安い藁半紙に印字された手書きの学級頼りが、数十年の時を経て、赤道を越え、南半球のシドニーで、私の目の前にある。

Email が一般化する以前に日本の母から受け取った手紙を溜めてあった箱の中にこれを発見した。

この学級頼りを配布した高橋先生も、日本からこれを持ち込んだ私本人でさえも、数十年後にこんな場所で発見するとは考えもしなかった。


「人間がキライ」という高橋先生とは特別仲が良かった訳ではないし、かといって何かもめたことがあった訳でもない。

高校時分、素行の悪かった私は先生にとって、深く関われば面倒な人間だと思われていただろう。

先生とは何も、何事もなく、無難に1年を終えた。

そんな、無難に我々に接していた先生が学級便りで初めて私たちに本心を明かしたのが卒業の直前だった。

人間がキライな自分は、教師という職業に向いていないのではないか、という苦悩。


『辛いのは私も同じだよ、先生。

先生も、同じように苦しんでいるんだね。』


ようやく距離が縮まった。


自分の気持ちを偽り私たちに接していた先生が、紙面に引用したのは谷川俊太郎の詩、「うそ」

うそがそこらに転がる「不都合」を包み隠す。
でも、ほら、うそを止めたら重くて固い壁が一瞬にして消えた。

なぜこの学級便りを私がシドニーに持って来たのか……
あの頃の私は自分を含め、人間がキライだったのかもしれない。
オーストラリアに渡った当時の私の意図は今となってはぼんやりとしか思い出せない。

しかしながら、少なくとも今ここに一つの答えがある。
高橋先生が素晴らしい仕事をされたということ。


あなたが教師人生で関わった数万人のうちの一人は、あなたの告白に心を打たれ、あなたが引用した「うそ」という詩に感銘を受け、あなたの純粋さを大切に手元に残したのですよ。

自分は教師に向いていないのでは?
数十年前に迷ったあなたへの100%の答えが今ここにありますね。
あなたは教師に向いていた。
生徒の心に影響したのだから……
高橋先生、ありがとう。


同じ学級便りに、時を超え発見した今、また感動しています。
これがここにあるという事実に。

教育とは、汚いことや醜いこと、みっともないことを取り去り、きれいごとを見せつけることではなく、全てを見せ、それを心の豊かさへと導くことなのだろうと思う。

今、私は器用なところも、不器用なところも含め、人間が大好きだ。

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学級新聞【飛翔】3F通信

ほんとうはキライ!?


2月も半ばを過ぎたある昼下がりのことである。3Fの女子が数名、図書室で“卒業旅行”の相談をしていた。
“温泉のあるところがいいよ〜。”などと楽しげな声が聞こえてくる。中のひとりに、“先生も一緒に行こうよ〜。”と声をかけられ、思わず苦笑いしてしまった。“先生抜きであなたたちだけで楽しくやったほうがいいんじゃないの。”すると、“本当はキライなんだよね、うちのクラス。”
どきっ!?

“そんな事は無いわよ。”とか何とか言いながらその場は切り抜けた。
そしてその後つらつら考えてみた。
“意外と私の本質を言い当てているのかも。”


誤解のないように断っておくが、私は決して3Fがキライなのではない。F組が誕生して以来、“一生懸命”好きであったつもりである。ただ“一生懸命”にならなければそうはなれないことに、私自身の問題があるのだろうと思う。その点を感性の鋭いあなたたちに“本当はキライ”というふうに指摘されるのだろう。

教職について10年になるが、その間何度か“私はこの仕事に向いていないのではないか”と悩んだことがある。なぜそう思ったのかというと、私は本当は人間がキライなんじゃないかと疑うような時があったからである。人間がキライと言う事は、目の前にいる生徒がキライということであり、ひいては自分自身がキライということでもある。
そのたびに私は、“いやそんな事はない。私は人間が好きなのだ。生徒ももちろん自分自身も。人間は誰にでも可能性がある。人を変えようと思ったら、まず自分自身が変わることだ。”と思い続けてきた。もしかしたらそれは、私が自分自身に対して懸命につき続けてきた“うそ”なのかもしれない。

その“うそ”が“うそ”でなくなるように、私はあなたがたひとりひとりの成長と自分自身の成長をしっかりと見つめていきたい。
3年間ありがとう。

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うそ

ぼくはきっとうそをつくだろう

おかあさんはうそをつくなというけど

おかあさんもうそをついたことがあって

うそはくるしいとしっているから

そういうんだとおもう

いっていることはうそでも

うそをつくきもちはほんとうなんだ

うそでしかいえないほんとのことがある

いぬだってもしくちがきけたら

うそそつくんじゃないかしら

うそをついてもうそがばれても

ぼくはあやまらない

あやまってすむようなうそはつかない

だれもしらなくてもじぶんはしっているから

ぼくはうそといっしょにいきていく

どうしてもうそがつけなくなるまで

いつもほんとにあこがれながら

ぼくはなんどもなんどもうそをつくだろう


『はだか』
谷川俊太郎詩集
佐野洋子絵より

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この詩は“子供の眼”を借りた大人の詩です。“平仮名書き”であることの妙味もじっくりと味わってください。


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