「きれいごと」とはなんだったのか
「おかえりモネ」を観た。後半に少し展開を急がされてしまったような印象はあったが、もともとファンだった清原果耶を中心に素晴らしい演者による素晴らしいドラマだった。コロナでの短縮がなければ、安達奈緒子氏も思った通りにもっとじっくり丁寧な脚本が書けたのではないかと思うと残念だが、そこは今から言っても仕方がない。関わった人全員の次回作に期待したい。
ひとつだけ、気になった点があった。モネが地元に帰り、永瀬廉演じる亮と話すシーンだ。モネが地元の役に立つために帰ってきたことについて、亮は「きれいごとにしか思えない」という。それに対してモネも「今はそう思われても仕方ない」と返す。この後も、モネは自分の帰郷を「きれいごと」でなくするために努力し、最後には亮も発言について謝罪、モネの帰郷は「きれいごと」でないと認めたように見える。「きれいごと」の否定を前提として、話は進んでいる。
この「きれいごと」とはなんなのだろう。ここが物語の中で明示されておらず、個人的にはもやもやが残ったまま完結を迎えてしまった。モネの帰郷は、「きれいごと」でなくて一体なんだったのか。
この説明を探すには、モネが地元に戻った理由を理解しなくてはいけない。直接的には気仙沼で起きた竜巻だが、モネはそれ以前から地元へ帰るという考えを持ちはじめていたように見える。
きっかけとして特にひとつ挙げるとするなら、今田美桜演じる神野がモネに厳しい言葉を投げかけるシーンが思い浮かんだ。「人の役に立ちたいとかいうけど、それも結局自分のためなんじゃん?」この言葉自体は棘の強い厳しい言葉だが、人の役に立ちたい、特に地元の友人や家族たちの役に立ちたい(上京したての宮城での強風の際に朝岡に強い口調で話した言葉からそれは受け取れる)と思いながら自分の立ち位置に悩んでいたモネにとって、これほど楽になる言葉は無かったのではないか。人の役に立つのは自分のため、私個人の解釈を入れると自分の満足のため、というスタンスは、良い悪いは別として「人の役に立ちたい」という肩肘張った「道徳的」な行動の動機から自由に物事を考えられるようになる気がする。あっけらかんと、本人曰く「ハッピーに生きてきた」神野だからこそ言えた言葉で、地元の役に立ちたいと願いながら、(仙台まで出ていただけで、実際にモネは震度7の大地震を体験しているのにもかかわらず)震災時の自分の不在を負い目に感じ流れるように東京に出てきていたモネに、「自分のため」に気仙沼に戻るきっかけをくれた言葉だったように思う。
これがモネが帰郷を考えはじめたきっかけだとすると、「自分のため」というのがキーワードになってくる。帰郷以降の活動の数々、これもほとんどが無償の、「人のため」の活動であるが、それも最終的には自分の満足のためなのだ、という理解、というか達観のようなものがあるからこそ、その活動には重みが増し、自分ごととして動く充実感があるように思える。これが亮に「きれいごと」でないと感じさせた理由であるなら、「きれいごと」は「自分本位でない、他人事」というような意味にとることができるのではないか。
そう考えると、似たシーンはいくつも思い当たる。「親父を元に戻すことが俺の目的だ」と話す亮に新次が「それではお前の人生ではないだろう」と声をかける場面、何度もあったモネと未知の母が「好きなように生きなさい」と話す場面。龍巳と耕治の牡蠣養殖事業をめぐるやり合いにも、息子が自分のためにこれまでの仕事を投げ出すことを拒む父と自分の意志で養殖業を継ぐという息子のやりとりが見えた。寺を継いだ三生も、押し付けられた住職の人生を拒みながら、最終的には自ら住職への道を選んだ1人だ。
「自分本位で生きる」というのが、「きれいごと」の対極としておかれた、「おかえりモネ」の最大のメッセージだったのではないか。物語のラストを華々しく飾った裏主人公とも言える亮と、モネの「きれいごと」をめぐるやりとりは、そう感じさせるに十分だったと思う。