現代語訳『梅松論』(中先代の乱 その6)
諏訪大社の祝親子(諏訪頼重・諏訪時継)と安保左衛門入道道潭の子は自害し、他の者たちも大半が投降もしくは討ち死にした。
相模次郎(北条時行)が父祖伝来の鎌倉を取り戻した七月末から八月十九日まで、わずか二十日あまりで没落したのは何とも哀れであった。だが、鎌倉に攻め入った際、大将の当人はまだ幼童だったにもかかわらず補佐すべき古老がいなかった。大仏・極楽寺・名越の子孫も、各地の寺で喝食行者(稚児)になってかろうじて生き延び、その後に還俗して乱に加わったものの、やはり彼らを支える大人が付いていなかった。統制の取れぬ凶徒どもが敗れたのは天命に背いたためと言えよう。
人々は相模次郎のことを「中先代」(北条氏の先代と当代との間)もしくは「二十日先代」(二十日間のみ復活した先代)と呼んだ。
(現代語訳『梅松論』中先代の乱 了)
【 主な参考文献 】
新選日本古典文庫(三)『梅松論・源威集』(矢代和夫・加美宏 校注)、現代思潮新社
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