現代語訳『伽婢子』 夢のちぎり(1)

 大永《だいえい》の頃、山城《やましろ》国の淀《よど》に武士を辞めて庶民になった船田《ふなた》左近《さこん》という男がいた。気立てが優しく情も厚く、世に並ぶ者のない美男子の上に家が裕福だったので、あしざまに言う者は一人もいなかったが、二十二歳になっても妻を迎えず、色好みの浮名が立っていた。
 晩秋のある日、左近は橋本《はしもと》に所有する田で稲刈りをするために船で淀川《よどがわ》を下った。その途中、橋本の北に多くの客で賑《にぎ》わう小綺麗《こぎれい》な酒屋があったので立ち寄った。
 店の後ろの岸に船を着け、酒を買って後で飲もうと思っていたが、店の主人がやって来て「こちらへどうぞ」と勧められたため、川岸に懸《か》け造りにした座敷に上がった。
 座敷の西には柳の古木が枝を垂らし、紅葉と重なり合って嵐で葉を散らしている。色を変えていく萩《はぎ》の下葉《したば》の枝が露《つゆ》で重そうにたわみ、秋の終わりを悲しむ虫の声が薄《すすき》の根元からか細く聞こえてくる。籬垣《ませがき》では菊花が咲き匂い、誰の袖の香りだろうかと思うほどに儚《はかな》くも慕わしい心地がする。
 北を見渡すと、淀川の波が浮き沈みし、何かで遊んでいるのか、あちこちで鴎《かもめ》の鳴き声がする。楊枝島《ようじがしま》や渚院《なぎさいん》もほど近く、水野から山崎、鵜殿《うどの》、三島江《みしまえ》までが一望できる。
 主人は杯《さかずき》を差し出して酒を勧め、肴《さかな》を用意した。
「こちらは松江《ずんこう》の鱸魚《ろぎょ》ではございませんが、かの玄恵《げんえ》法印《ほういん》が『庭訓《ていきん》往来《おうらい》』で絶賛した淀鯉《よどごい》の膾《なます》でございます。また、こちらは呉中《ごちゅう》の蓴菜《じゅんさい》ではございませんが、紀貫之《きのつらゆき》が歌を詠《よ》みながら摘《つ》んだ水野の沢の根芹《ねぜり》でございます」
 手厚いもてなしに感じ入り、左近は幾度も杯を傾けた。
(続く)

 KISARAGIというメルマガで古典の現代語訳をしていましたが、この度、こちらに移ることになりました。

『伽婢子《おとぎぼうこ》』というタイトルを初めて聞いた方もいらっしゃると思いますので、簡単に作品についてご紹介します。
 江戸初期に書かれた怪異・怪談もので、江戸怪談ブームの火付け役と位置付けられる作品です。作者は浅井了意《りょうい》。
 また、今回からお届けする『夢のちぎり』は、『伽婢子』に収録されている11番目のエピソードになります。

 物語の舞台である橋本は、現在の京都府八幡市に当たります。石清水八幡宮の門前町で、江戸時代に京都と大阪を結ぶ京街道(大坂街道)の宿場町として栄えましたが、桂川・宇治川・木津川が合流する地点で、当時(大永=戦国時代)はのどかな田園が広がっていたようです。また、主人公の家がある淀(京都市伏見区)は橋本から三キロほど北の上流にあり、こちらも交通の要所として古くから栄えた町です。
 さて、本作の主人公は人望・美貌・財産いずれもそろった人物ですが、女癖だけはあまりよくなかったようです。どのようなストーリーになりますでしょうか。

 続きは次回にお届けします。それではまた。


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