現代語訳『梅松論』(中先代の乱 その3)
ところで、この乱のさなかに湯治で相模国の川村山(神奈川県山北町)を訪れていた細川四郎入道義阿(頼貞)の元に使者がやって来た。息子の陸奥守顕氏からの使いで、「どうかご無事にご上洛してください」という伝言を伝えた。
「敵の中にありながら一功を成すこともできぬのは誠に無念である。このまま生き永らえても人々は不満に思うに違いない。ならば、この一命を奉り、子孫に合戦の忠を示そうぞ」
そう言って、義阿は使者の前で自害した。
この話を聞いた将軍(足利尊氏)は、「誠に忠臣の道とはいえ、勇ましくも哀れである」と心から嘆いた。彼の死によって子孫たちは合戦の度ごとに忠功を尽くし、息子の帯刀先生直俊、孫の左近大夫将監政氏らは討ち死にした。騒乱が治まった後に息子の顕氏は義阿のために奥州と京都に安国寺を、讃岐国に長興寺を建立した。「我が命は一塵よりも軽い」と命を絶ち、没後にその威が上がったのは誠にありがたい話であると人々は申し合わせた。
【 主な参考文献 】
新選日本古典文庫(三)『梅松論・源威集』(矢代和夫・加美宏 校注)、現代思潮新社
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