現代語訳『梅松論』(中先代の乱 その1)

 こうして建武けんむ元年(一三三四年)は暮れたが、翌二年(一三三五年)の天下はさらに乱れた。七月上旬、信濃国しなののくに諏訪すわ(長野県諏訪市)の上宮かみのみや(諏訪大社上宮)の大祝おおほうりである安芸守あきのかみ時継ときつぐの父・三河みかわ入道にゅうどう照雲しょううん(諏訪頼重よりしげ)と滋野しげの一族は、北条ほうじょう高時たかときの次男・相模さがみ次郎じろう時行ときゆき(幼名:勝寿丸しょうじゅまる)を大将だいしょうとして信濃国で蜂起ほうきした。

 守護しゅご小笠原おがさわら信濃守しなののかみ貞宗さだむねが京都に状況を報告したところ、評定衆ひょうじょうしゅうは「凶徒きょうとどもは木曽路きそじを経て尾張国おわりのくに黒田くろだ(愛知県一宮市)に向かうはずなので、軍勢を尾張に向かわせるべきだ」と判断した。

 その間、反乱軍は信濃国で兵を集めて鎌倉かまくら(神奈川県鎌倉市)へと向かった。これに対し、渋川しぶかわ刑部ぎょうぶ義季よしすえ)と岩松いわまつ兵部ひょうぶ経家つねいえ)は武蔵国むさしのくに女影原おなかげがはら(埼玉県日高市)で昼夜戦ったものの反乱軍の勢いは激しく、敗れて両名は自害した。さらに小山おやま下野守しもつけのかみ秀朝ひでともが救援に向かったが力及ばず、秀朝ひでともをはじめ一族家人けにん数百人は府中ふちゅう(東京都府中市)にて自害した。


【 主な参考文献 】
新選日本古典文庫(三)『梅松論・源威集』(矢代和夫・加美宏 校注)、現代思潮新社


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