現代語訳『梅松論』(中先代の乱 その2)

 報告を受けた下御所しもごしょ左馬頭さまのかみ殿(足利あしかが直義ただよし)は七月二十二日、鎌倉を離れて自ら迎え討つ決断を下した。同日、薬師堂谷やくしどうがやつ(神奈川県鎌倉市二階堂)の御所に幽閉されていた兵部卿ひょうぶきょう親王しんのう護良もりよし親王)が亡くなったが、痛ましいという言葉では言い尽くせない最期であった。

 両軍は武蔵国井出沢いでのさわ(東京都町田市)で激突した。左馬頭殿の軍は多数討たれ、上野こうずけ成良なりよし親王と六歳の足利義詮よしあきらを連れて東海道に退いた。手越てごしうまや(静岡県静岡市駿河区)にたどり着くと、北条氏に恩顧のある伊豆国いずのくに駿河国するがのくにの武士たちが襲い掛かった。供の者たちは無勢とはいえ武略を巡らして防戦していたところ、駿河の工藤くどう入江いりえ左衛門尉さえもんのじょう春倫はるとも)が百余騎でせ参じて忠節を尽くしたため敵は退散した。その後、宇津谷うつのや(静岡県静岡市~藤枝市)を超えて三河国みかわのくに(愛知県東部)に入り、人馬の息を休めた。


【 主な参考文献 】
新選日本古典文庫(三)『梅松論・源威集』(矢代和夫・加美宏 校注)、現代思潮新社


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