現代語訳『梅松論』(中先代の乱 その4)
早馬によって関東での合戦の有様が京都にもたらされると、将軍(足利尊氏)はすぐに後醍醐天皇に奏上した。
「関東にて凶徒どもが乱を起こし、鎌倉に攻め入った旨の知らせが入りました。直義朝臣(足利直義)の下にはあいにく十分な兵が備わっておらず、防戦する手だてがなかった故、やむなく東海道に撤退したとのこと。速やかにわたしも関東へ赴き、彼らと合流すべきかと存じます」
しかし、いくら説得しても下向の許可が下りなかったため、将軍は独断での行軍を決断した。
「これは私情ではございません。あくまで主上の天下を思っての行動なのです」
そう言い残し、八月二日に京を出発した。
【 主な参考文献 】
新選日本古典文庫(三)『梅松論・源威集』(矢代和夫・加美宏 校注)、現代思潮新社
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