都知事選2024、その後
「note書く気力ないのでメモ」と書いて1つだけあるツイートをしたら、少しだけ文章が書けそうな気がしたので、とても短い内容にはなると思うけれど、ここに書き記しておく(いつからか、思ったことはなるべくツイートではなくブログに残しておきたいという気持ちがわたしにはあるため)。
まず、現在Twitterなどで「石丸構文/小泉進次郎構文」といったワードが瞬く間に広がっている。前提を詳述している気力はないのでもし知らない人がいたら自分で調べてほしいのだけれど、とてもおおざっぱにいってしまえば、「両者の発言ってこうだよね」という話を他者と共有するためのワードであり、かつ、言いはじめた人の意図がどういうものかは知らないけれど、現在では基本的に石丸氏を批判するためのものとして機能している。
これまたざっくりとだけれど、その二項対立で示されていることは、石丸氏は人とコミュニケーションをとるときにいちいち人が扱っている言葉の「定義」についてそれを説明するよう求め、そうすることで議論を前に進ませないようにするような人であり、小泉氏は当たり前のことを当たり前のように言う人であるというものだ。
わたしは、石丸氏の言動については都知事選開始当初からきわめて批判的な視点しかもちあわせておらず、今回の「~構文」(この言い方はただのレッテル貼りによるヘイトを助長させる可能性があるため、今回の件に限らず好きなワーディングではない)の話以前から氏に対する印象は変わっていない。なので、いまさらそれをここで長々と書く気力などとうていないのだけれど、ここで書いておきたいのは、むしろこの流れの中で小泉氏が相対的に再評価されていることに対する違和感だ。
小泉進次郎氏は一時期人気だった。
10年も昔の話ではないと思うけれど、石丸氏のように当初はネット受けがよかった。自民内で自民批判をしていたということもあり、「勢いがある」というふうに思われていたという点についても似ている。2人の考え方が似ているかどうかはここではおいておく、というか、そこは書いていない。いましがた書いたのは、知名度が上がりはじめた2人のそれぞれの時期に対する世論が似ている点があるということだ。
まず、この意味において2人を二項対立で比べて、おもに石丸氏を批判するために後者を相対的に評価するという言動はあまりにも歴史を忘れすぎなのではと思う。
また、そんなこんなで時代の波にかつて乗った小泉氏は、しかし(だからこそ?)環境大臣として登用されることとなり、数年務めた。あれだけ自民批判をしておきながら、自民が服を着て歩いていたような安倍内閣において大臣の任命をまんまと受ける……? いや、まあオファーがきたら受けるしかないんだろうけど、もともと小泉氏の人気自体にも違和感があって小泉氏に対してもネガティブな視点ばかりをもっていたわたしは、「結局長いものに巻かれておわっていくのか……」と思った記憶がある。そして、実際に巻かれただけで終わっていった。実績が何もないとは思わない。けれど、環境大臣として彼がなにを残したかという点については批判的にしか考えることができず、擁護するのは難しいし、実際、日本の環境問題に対する立ち位置や原発、火力発電、再利用エネルギーに関する議論は基本的に停滞したままだ。むろん、これについては小泉氏がどうということ以上に大きな問題が山積しているわけだけれども……。
ともかく、わたしの所感はどうであれ、世論も小泉氏に対して厳しくなっていった。そんな小泉氏を、というより、小泉氏の言動を、石丸氏のそれと比べて再評価したり好感をもったり、またそれらをネタとして楽しんでいたりというこの状況はどうなんでしょうか。そんなん、メディアや政治家にバカにされたり、「国民はすぐに忘れるから」と思われてあれやこれやと不正行為をはたらかれたりしてしまう材料を与えてしまうことになってしまうからよくないと思います……。いや、国民が四六時中監視していないと不正行為ばかりしてしまうメディアや著名人や政治家に対してわたしはとっても辟易しているし、四六時中監視してたら自分たちの時間がなくなっちゃうよという話なのだけれど、とはいえ、政治や選挙にはゲーム性(≒明示されていようがいまいがそこには一定のルールがあり、そのルールに則って、あるいはそれらをうまく利用して「勝ち」にいくという性質)があるわけで、怒りだけでゲームに勝てたら誰も苦労しない。
大急ぎで念のため書いておくと、怒りは当然とても大切な感情だし、それをバカにしたり冷静ぶって何にもコミットしないという姿勢に対してわたしは批判的だ。とはいえ、今回の件に限らず、日本に限らず、「ターゲットを殲滅するためなら使えるものは何でも使う」という戦略はカール・シュミットやナチスの例を持ち出すまでもなくいろいろと危険なことが多い。日本の政治の現況についていえば、2012年に自民に政権を奪取されてから野党あるいは「反自民」は12年以上それで失敗しつづけている。
『FINAL FANTASY XIII』(2009年)では、主人公のライトニング(エクレール・ファロン)は目の前の困難に立ち向かっていく際、「つべこべ言っている暇はない、もう進むしかない、やるしかないんだ!」といったような強迫観念につねにさらされていたと記憶している。つねに背水の陣だった。そこに共感する人もいたのだろうけれど、わたしはつねに一種の危うさをライトニングたちに感じていた。事実、その勢いや強迫観念だけでライトニングがエンディングにたどり着けたわけではない。ストーリーパートだけならばそれでよかった。けれど、現実的にはわたしたちプレイヤーがライトニングのあずかり知らぬところでライトニングたちのレベルを上げ、探索パートでは適切な道を選び、戦闘パートでは対戦相手に合わせて戦略を考え、その戦略に沿ってコントローラのボタンを適切なタイミングで押していた。
わたしは今回の都知事選における投票権は持っていなかったのだけれど、気持ちとしては蓮舫氏に勝ってほしかった。けれど、結果は大敗だった。ゼロ打ちで大勝した小池百合子氏の都政がこれからまた4年間は続く予定なのだということを思うだけで心が折れる。
いちおう書いておくと、蓮舫氏やこの12年間野党として戦いつづけている人たちをライトニングになぞらえているわけではない。ライトニングは石やハンマーのように実在しているわけではない、架空のキャラクターだからだ。蓮舫氏も、野党の人たちも、それらを応援している人々もみなプレイヤーである。というより、ときには「対戦相手」側(?)になることだって当然ある。「この人は絶対に差別をしない」「この人は絶対に人をいじめない」などといった現実はどこにも存在し得ないからだ。ライトニングとは、たとえば「反差別」といった「理想」それ自体のようなものであり、具体的な内容は文脈によって変わっていくほかない。いまならば「政権交代」や「涼しい顔でヘイト行為、不正行為をしてしまう政治家たちの退却」あたりと見立てるのが妥当なのではないかと思う。
キャラクターもいる、怒りも切迫感も多くの人が抱えている。ならば、プレイヤーとしてはどのように動いていくべきなのか。いまわたしは途方に暮れている。