「どっちもどっち」がたいてい心の省エネ機能によるものなのだとしたら、その機能はオフにしておかないとまずい場合も多いと思う
「アメリカ大統領選について、イスラエルの問題については絶望的な未来しか見えないという意味ではカマラ・ハリスもドナルド・トランプも同じ」といった嘆きをTwitterでしばしば目にする。その状況を前にして、「ちょっと目先のことしか見ていないのでは」と思ってしまった(ここで、「Twitterなんてしょせんそんなもん……」という話はさすがに乱暴なのでしない)。
おそらく、2016年にトランプがアメリカ大統領に当選してから2020年にバイデンがトランプに勝つまでの4年間で、人々のトランプに対する認識があっさり書き換えられてしまったのだと思う。トランプが当選するまで、少しでも政治に関心がある人たちの間では「トランプに入れるなんてあり得ない」という論調が強かったし、政治的関心がない人からしても「あんな人が当選するの?」といった見方をする人は少なくなかったと記憶している。もちろん、いざふたを開けてみたら「実はリベラル層でもトランプに入れている人がいた」とかいろいろと論点はあるわけだけれども、いずれにせよ、トランプによるこれまでの数々の人権侵害や差別を前にして「どっちもどっち」だなんてわたしにはとうてい思えない。
ここで、「そもそもどれだけの人が10.7以前からこの問題について関心をもっていたのか」といったことは書かない。人にはそれぞれのスタート地点があるわけで、「そんなのも知らなかったの?」といったものは自省のための言葉としては重要だとは思うけれど、先達者がほいほい言っていいような言葉だとは思わない(同時に、どんなときでも言ってはいけないとも思わないけれども)。とはいえ、トランプがしてきた数々のことを忘れるにはさすがに早すぎはしないだろうかと思ったのだ。
こうしたわたしの思いに対して、それはBLMに対するALMなのではないかと思う人もいるかもしれないけれど、「イスラエルの問題についてだけでアメリカ大統領選の行く末について『どっちもどっち』だと言ってしまうのはさすがに早急すぎるし、それはアメリカで起こっているさまざまな差別、それこそ黒人差別を含む人種差別などを無視しているに等しい物言いなんじゃないか」といった警鐘は、BLMに対するALMほど粗雑な反論と同等のものだとは思えない。
というか、そもそも「イスラエルの問題に対してハリスとトランプを『どっちもどっち』と判断することにどれだけの正当性があるのか」といった点についてももっと検証されてよいと思うし、これからされるのかもしれない。
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