しっかりなんてしていない
2024年4月12日(金)の日記。
共同親権法案が衆議院法務委員会で可決された。このままだと16日には衆議院で可決される。これからなにかしたところでなにかが変わると信じることはできないけれど、自分でできる範囲のことをしようと思う。署名などもあるので、まだの人はもしよかったら署名をしてみてほしい。
共同親権にかかわらず、日本ではいたるところでいたる問題がさまざま人によって引き起こされている。自分自身が加害者となってしまうこともときにはある。問題への抵抗が意味をなさなかったときの徒労感は大きい。いや、一つ一つの問題それ自体で被るダメージはそこまで大きくはない。なぜなら、それはもう予測できたことだから。わたしはどちらかというと積極的に署名をするほうで、Change.orgからも「あなたはうちのユーザーのうち上位数%に入るくらい署名をしているので寄付もいかが?」という案内が結構頻繁にくる。けれど、一つ一つの署名で世界がよりよくなっていくと毎回信じて署名しているわけではない。わたしがほかのことでなにか社会に対して影響力を持つことができていたら、ここまで積極的に署名していなかったと思う。なにもできていおらず、そしてきっと署名したところでなにかが大きく変わることのほうが確率としては低いだろうと思いながら機械的に署名をしているとすらいえる。成功したらラッキー、失敗したら想定内。
けれど、その想定内の敗北も、数を重ねると大きな徒労感となってわたしの心身をむしばんでいく。マイクロアグレッションが蓄積されて人に多大なダメージを与えてしまうように、この学習性無力感からくる慢性的な抑うつ症状と、それによる運動不足でさらに体が動きづらくなってしたいこともできずにベッドでうずくまる、いや、そもそもしたいことなんてあったのだろうか、なんて気にすらなってくるくらいには、痛い。抗うつ剤の効果も乏しく、結局は自分の思考回路をチューニングするために日々の過ごし方を総合的につねに調整していくしかない。
もし「大人は『しっかり』している」と思ってしまうことでプレッシャーを感じている人がこれを読んでいたとしたら、安心してほしい。世の中の大人の多くはしっかりなんてしていない。もしかしたら、人類すべてがしっかりなんてしていないのかもしれない。そもそも、しっかりした人/しっかりしていない人という二項対立自体があいまいな構造であり、現実的にはすべての人にしっかりしているときとしっかりしていないときがあるに過ぎないのだと思う。
ここから先は
ご支援いただけますと大変助かります。生活費ほか、わたしが生きていくうえで必要なものに使わせていただきます。