固定残業代制の「対価性」判断の最新事情【国・所沢労基署長(埼九運輸)事件・東京地裁令和4年1月18日判決】
固定残業代の論点について、近時、熊本総合運輸事件の最高裁判決(最小1令和5年3月10日判決)が大きな話題になりました。
同判決は、固定残業代制が有効となるための判断基準である「対価性」の論点につき、契約の文言といった形式面だけでなく賃金体系全体の位置付けや就労の実態にまで丁寧に検討するよう求めている点で大きな意義があります。
同判決が出る以前、下級審レベルでは契約や就業規則の文言上において基本給部分と固定残業代部分が明確に区別されてさえいれば固定残業代制を有効とする傾向が見られました。
しかしながら、そのような傾向とは逆に、同判決が出る以前から「対価性」を詳細に検討して固定残業代制を無効にする下級審判決も少なくありませんでした。
今回は、そのような下級審判決の一例として国・所沢労基署長(埼九運輸)事件(東京地裁令和4年1月18日判決)を紹介いたします。
どのような事案だったか?
本件は、過労での不安定狭心症を発症した原告労働者が、労働基準監督署長に対して労災保険(休業補償給付)の支給申請を行ったことに対し、同署長が、その支給を認めつつ、「運行時間外手当」として支給された金額については(固定)残業代の支払に当たることを理由に給付基礎日額に参入しなかったため、その支給決定処分の取消しを求めた行政訴訟です。
裁判所は原告の主張を認めて固定残業代制を無効とし、処分を取り消す判決を下しました。
事案の概要
裁判所が認定した事実関係は次のとおりです。
原告は平成28年10月26日、一般輸送業を営む埼九運輸株式会社(本件会社)との間で無期の雇用契約を締結。
この雇用契約締結の際に原告が署名押印した労働条件通知書兼契約書は「基本給14万1800円」、「評価給1万6800円」とは別に「運行時間外手当」として14万9900円を支給すると記載されていた。
同契約書や同社の就業規則には「運行時間外手当」は通常発生する時間外相当額として支給されるものとして記載され、その見合い時間外労働時間数を「運行時間外手当÷(基準内賃金÷月平均労働時間数×1.25)」と定めると規定し、さらに割増手当の不足分は差額を支給するとも規定されていた。
平成29年2月、原告の基本給は14万7700円となり、運行時間外手当は14万4000円と変更された。
平成28年12月21日から平成29年3月20日まで、原告は1か月当たり97時間から110時間の時間外労働を行った。
平成29年3月29日、原告は不安定狭心症を発症し、以降、本件会社を休業している。
判決の内容
以上の事実関係のもとに、裁判所は以下のとおり判決しました。
固定残業代制の有効性の判断基準について
使用者が労働者に対して特定の固定残業代を支払うことで労基法37条の定める割増賃金を支払ったとすることができるか否かを判断するためには、「通常の労働時間の賃金に当たる部分と同条の定める割増賃金に当たる部分とを判別することができることが必要である」(判別可能性)
そして、この「判別可能性」があるというためには、「当該手当を時間外労働に対する対価として支払われるものとされていること」(対価性)を要する。
この対価性の有無は「当該労働契約に係る契約書等の記載内容のほか、具体的事案に応じ、使用者の労働者に対する当該手当や割増賃金に関する説明の内容、労働者の実際の労働時間等の勤務状況などの事情を考慮して判断すべきである」(最小1平成30年7月19日判決〔日本ケミカル事件〕
労働契約書や就業規則の記載について
本件賃金規程上は、時間外勤務手当、休日勤務手当、深夜勤務手当が別個に定められていること、〔運行時間外手当の見合い時間を定める〕1.25という係数が法定外時間外労働をする場合の係数であることに照らすと、「本件契約書及び本件賃金規程によれば、運行時間外手当は、法定外時間外勤務に対する対価」である。
労働者に対する説明について
本件会社の管理者Bは、自分自身もトラック運転手として勤務していたところ、運行時間外手当について「もうそれが総支給というので言われていましたので」、「早く帰っても遅く帰っても、給料は一緒っていう自分の認識でした」、「同じ業務であれば同じ給料なので」と証言する。
この証言からすると、「Bは、賃金規程の意義に対する認識に乏しく、要するに、トラック運転手のあらゆる種類の残業代は全て運行時間外手当に含まれており、どれだけ残業しようが運転手の賃金は、基本給、評価給、時間外手当及び通勤手当の合計額を超えることはないという認識であったと認められる」
本件会社は「原告が本件疾病を発症して労災申請を検討し残業代支払を求めた後の平成29年4月28日・・・まで原告に対して運行時間外手当を超える部分の残業代を支払っていない」
「本件会社において日ごとや月ごとの原告の実労働時間を日常的に把握して管理していたものと認めることはできない。」
以上から、「本件会社としても、原告のあらゆる種類の残業代は全て運行時間外手当に含まれており、どれだけ残業しようが原告の賃金は、基本給、評価給、運行時間外手当及び通勤手当の合計額を超えることはないという認識であったと認めることができる」
以上によれば、原告と本件会社との雇用契約において、運行時間外手当が、法定内時間外勤務、法定外時間外勤務、深夜勤務及び休日勤務に対する対価としての支払われたものとは認められない。
その他の賃金体系全体の位置づけについて
原告の賃金は、基本給及び評価給の合計額が15万8600円であるが、無事故手当という位置づけの評価給を除くと基本給は14万1800円となり運行時間外手当14万9900円より低額となっている。
基本給及び評価給の合計額15万8600円を月平均所定労働時間173.75時間で除すると913円となるが、これは平成29年の埼玉県の最低賃金871円に近い金額となるし、評価給を除いた14万1800円を同時間で除すると816円となるが、これは最低賃金を割り込んだ金額となり、大型運転免許とフォークリフト免許という特殊な免許を持つトラック運転手である原告の時給としては明らかに低額に過ぎる。
「原告の運行時間外手当は14万9900円であるところ、これを法定外時間外勤務の時間単価1141円(913円×1.25=1141.25円)で除すると、運行時間外手当に含まれる法定外労働時間数は約131.38時間となる」ところ、この時間は「36協定の上限の90時間を大幅に超え、さらに「脳血管疾患及び虚血性心疾患等(負傷に起因するものを除く。)の認定基準について」(令和3年基発第1号による廃止前の平成13年厚生労働省基発第1063号)が定める一月1当たり100時間という時間外労働時間の基準すら超えるものである。」
さらに、本件会社は、「平成29年2月分から基本給を14万1800円から14万7700円に増額しながら、運行時間外手当を14万9900円から14万4000円に減額しているところ、…この基本給の増加額と運行時間外手当の減少額がいずれも5900円となっているが、これは昇給の在り方として不自然であるというほかない。」
これらによれば、本件会社は裏付けなく運行時間外手当の一部を基本給に割り変えたものであって、運行時間外手当には基本給に相当するものが含まれていることが推認される。
以上のような基本給と運行時間外手当の金額の比率及び基本給の1時間当たりの単価、運行時間外手当に見合う法定外時間外労働時間数、基本給の増額と運行時間外手当の減額の経緯等の事情を考慮すれば、本件会社が原告に対して支払った運行時間外手当には、法定外時間外勤務に対する対価以外のものを相当程度含んでいるとみるのが相当である。
したがって、運行時間外手当を固定残業代として有効であるとして平均賃金を算出して給付基礎日額を定めた本件処分は違法であるといわざるを得ず、本件処分は取消しを免れない。
判決へのコメント
結論、理由付けともに賛成です。
のみならず、固定残業代制の有効性を論ずる際にどのような事実を抽出していけばよいのかを分かりやすく示している非常に参考になる判決だと感じました。
本判決が引用する日本ケミカル事件最高裁判決や国際自動車事件第2次上告審判決(最小1令和2年3月30日判決)以来、固定残業代の有効性の判断基準である「対価性」については、①労働契約書や就業規則等の文言、②使用者から労働者に対する説明内容、③就労の実態、④賃金全体における当該手当の位置付けなどの事情を総合考慮するものという判断が定着しています。
ただ、これらの最高裁が出た後も、下級審レベルですと、ともすればこれらの判断要素については①の要素がもっとも重要で、②から④の要素は補助的な考慮要素として扱う(しかも、④の要素は時に無視される)ような傾向が感じられました。
そのような観点でいくと、今回の事例は労働契約書や就業規則上の文言では、「運行時間外手当」を時間外労働に対する残業代として支払っていることは明確でした。
そのため、裁判体によっては、この規定のあり方だけで固定残業代制を有効と判断していたのではないかと思われます。
しかしながら、今回の判決は、②から④の要素についても①と優劣をつけることなく丁寧に対価性を論じました。
すなわち、②の要素については、
本件会社のトラック運転手経験のある従業員による「もうそれが総支給というので言われていましたので」などの証言から、基本給と残業代が一緒くたで認識されていた
という形で考慮されています。
また、③や④の要素についても
使用者側において日ごとの労働時間の管理・把握がされていない
見合い時間を超えた場合の残業代の差額精算がされていない
原告労働者が大型運転免許とフォークリフト免許という特殊な免許を持つトラック運転手であるにもかかわらず、最低賃金付近水準の基本給しか保障されていない点が不自然である
基本給よりも固定残業代部分の方が高額になっている
固定残業代部分の見合い時間が過労死ラインを遥かに上回っている
基本給が上がっているのに固定残業代は減額されており、しかも総支給額では変動がない
といった点を丁寧に検証して、結論として本件会社の固定残業代制を否定しました。
しかも、本判決は、この結論を出すに際し「運行時間外手当の一部を基本給に割り変えたものであって、運行時間外手当には基本給に相当するものが含まれている」という表現を用いて、基本給の一部を固定残業代部分に付け替えたという点を指摘しています。
そして、この「基本給の(固定)残業代への付け替え」とは、まさに熊本総合運輸事件の最高裁が対価性を否定するために示した視点でした。
その意味で、本判決は同最高裁判決の判旨を先取りした非常に先見の明のある判決であったとも評価しています。
このように、本判決は、日本ケミカル事件、国際自動車事件第2次上告審判決の示す「対価性」の判断基準を具体化したものとして、今後の固定残業代制の有効性を論ずるに際し、非常に参考になるものであると感じました。
特に、同判決が具体的な考慮要素としてあげる
基本給と運行時間外手当の金額の比率
基本給の1時間当たりの単価
運行時間外手当に見合う法定外時間外労働時間数
基本給の増額と運行時間外手当の減額
といった判断要素は、非常に客観的かつ汎用性が高いことから、私自身、今後の同種事例で活用したいと感じました。
最後に
以上、「対価性」を詳細に論じた近時の下級審判例として国・所沢労基署長(埼九運輸)事件(東京地裁令和4年1月18日判決)を紹介いたしました。
固定残業代制については、最高裁自身、数年単位の間隔を置いて重要な判決を下しているところではありますが、詳細には判断要素の具体的内容を示さないため、皆が手探りで各々の主張を展開しているところです。
そのようななか、今回の判決は同種事例の具体的な判断基準として客観的で分かりやすく説得力もあるものを提示してくれました。
本判決の基準が同種事例で広く活用されることで、固定残業代制の有効性判断がこれまでよりも予測しやすくなり、結果、脱法的な固定残業代制を抑止できるようになるかもしれません。
その意味では、法曹関係者だけではなく、労務管理に携わる全ての人に知ってほしい判決だと感じました。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
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