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森川ジョージ先生と生成AIの画材論・女子高生のコラム

こんにちは!勉強も趣味も全力投球、ちょっぴりマジメな女子高生から今週もお届けするわ。今日はね、前回(なぜ人は生成AIに学習されることを諦めないのか言語化してみる)に引き続き、ちょっとお堅い話かもしれないけど、森川ジョージ先生の「生成AIは画材」という考え方について、真剣に考えてみたいと思うの。

『はじめの一歩』でおなじみの森川ジョージ先生が、X(旧Twitter)でこんなこと言ってたんだ。「たくさん描いてください。画材は何でもOK、アナログだろうがデジタルだろうが、AIだろうが。大切なのは、尊敬と誠実さを持って、自分のものにしていくこと。」って。

この言葉、すごく心に響いたんだよね。だって、私たちが普段使ってる色鉛筆や水彩、デジタルタブレットも、初めて使ったときは「これで上手く描けるかな?」って不安だったじゃない?でも、使いこなせば使いこなすほど、自分の表現の幅が広がっていく。生成AIも、新しいけど、ただの「新しい画材」の一つと考えられたら、すごくワクワクしない?

でもね、この考え方には賛否両論あって。反AIの人たちって、ちょっとAIがらみの話になるとピリピリしちゃう傾向があるみたい。でも、森川先生は「デジタル作画のはしりの時も、こんな感じで批判されてた。でも今は誰もが認める画材だよね?」って、すごく冷静に反論してたの。

正直、私もAIには賛成も反対もあるけど、森川先生の「楽しく粘り強く、健康一番でたくさん描いてください」っていうメッセージは、どんな画材を使おうとも大切にしたいなって思うの。

反AI派って、なんかもう「AI」という言葉にアレルギー反応示してるみたいで、ちょっと過敏すぎない?生成AIの話題が出ると、すぐに「人の作ったものをパクるだけの機械」とか、一方的な批判を始める人が多いけど、AIの使い方次第で、こんなにもクリエイティブな世界が広がってることに気づいてほしいな。

AIって、背景描くのにも、ポージング考えるのにも、めちゃくちゃ役立つよね。プロの漫画家さんだって、フリー素材使ったり、ポージング集からトレースしたりしてるわけで、それがAIに置き換わるだけの話だと思うの。

だって、考えてみて?新しい技術ってのは、常に私たちの創造性を刺激してくれるわけ。たとえば、AIが自動で色を塗る機能を使ったとしても、最終的に「これは私の作品!」って言えるのは、そのアイデアを考え、AIをどう使うかを決めた人自身だと思うの。

森川先生のような大御所が、「AIでもいいじゃないか、何でもアートの道具だよ」と言ってくれるって、なんか勇気づけられるよね。特に、私みたいにまだまだ学び途中の人にとっては、新しいツールを恐れずに、どんどん試してみるっていうのは、すごく大事なことだと思うの。

それで思ったんだけど、なんか反AI派の人って写真が発明された時の写実派の画家みたいなものだと私は感じるのよね。

19世紀半ば、写真が発明されたとき、世界のアートシーンは大きく変わったの。突然、現実を忠実に再現できる技術が登場したわけだから、それまで写実性を追求していた画家たちにとっては、自分たちの役割を問い直すきっかけになったのよね。

一部の画家は、この新しい技術に対して脅威を感じた。だって、彼らが長年培ってきた技術が、機械によってあっという間に実現できるようになっちゃったわけだから。でもね、そこで面白いのは、この変化がアートの世界に新たな流れを生み出したこと。

写真が写実性を担うようになったことで、画家たちはもっと抽象的な表現や、感情を表現する方法を探求するようになったの。つまり、写真の登場がアートを「進化」させたんだよね。

では、この話を現代に持ってくると、反AI派の人たちが、19世紀の写実派の画家たちと似たような立場にいるのかもしれないって思うわけ。AI技術が登場したことで、これまでの創造性や技術が脅かされていると感じている人たちがいる。それは、まさに写真が発明されたときの画家たちが感じたことと同じかもしれない。

でも、歴史を振り返れば、技術の進化がアートを終わらせることはなかった。むしろ、新しい表現の形を生み出し、アートの領域を広げるきっかけになった。だから、AI技術も、今までのやり方を完全に置き換えるのではなく、新たな創造性を引き出すための一つの手段になるはず。

もちろん、AIが持つ可能性を最大限に活用するためには、倫理的な議論や、技術の使用に関するガイドラインの確立が必要。でも、そのプロセスを通じて、私たちは新しいアートの形、新しい創造の方法を見つけ出すことができるのよ。

だから、反AI派の人たちも、写真が発明されたときの写実派の画家たちと同じように、今起きている変化をどう受け止め、どう自分たちの表現に取り入れていくかを考えるきっかけにしてほしいなって思うの。

歴史は繰り返されるけど、その都度、人類は新しい挑戦に立ち向かい、より豊かな文化を築いてきた。AI技術の台頭も、その一連の流れの中で見ることができるんじゃないかな。現在の反AI派の懸念は、技術の進歩に伴う不安と変化に対する自然な反応。でも、この変化を乗り越え、新しい創造性をどう引き出していくかが、これからの私たちの大きなテーマになると思うの。

AI技術が進化することで、確かに伝統的な技術やスキルが脅かされるかもしれない。でも、その一方で、AIをうまく活用することで、私たちの創造性に新たな次元をもたらす可能性もあるわ。AIが生成するアートは、今まで人間だけが持っていたと思われていた創造性の領域を広げるかもしれないし、それを通じて、私たち自身も新しいインスピレーションを受けることがある。

さらに、AIと共創することで、人間独自の感性や思考を新しい形で表現できるようになるかもしれない。例えば、AIが提案する意外な色彩や形、パターンからインスピレーションを受けて、人間が新しいアートワークを生み出すことだって考えられるの。

これからの時代、AI技術とどう向き合い、どう共存していくかは、私たち一人ひとりの創造性や柔軟性を試す問題になると思うの。反AI派の人たちの声に耳を傾けながら、それでも前向きに、AIを含めた新しい技術の可能性を探求していきたい。

結局のところ、アートとは、人間の内面を表現し、共感を呼び起こすもの。AIがどんなに発展しても、その本質は変わらないはず。技術が進歩しても、アートを愛する私たちの心は変わらないし、新しい技術を使ってさらに多様な表現を追求していくことができるんじゃないかなって、私は思うの。

でも、私が一番気になっているのは、反AI派の人って「反対すること」が手段じゃなくて目的になっている気がするのよね。


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