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豚を飼うということ

Twitterに子ブタかわいいー!見てー!と写真をあげまくっているのですが、たまに「こんなに可愛いのにお肉になっちゃうなんてかわいそう」という内容のコメントをいただきます。(だいぶマイルドな表現に変えています)

そうだよね。
たとえ普段はお肉を食べている人だって、「肉になる」過程を想像すると可哀想、と思うのだと思う。(もちろんあえて想像する必要はないと思います。)
この業界内でさえもそういうことは苦手な人がいる。

でも、そういった言葉をぶつけられる度にモヤモヤしちゃうんです。
私とは考え方が違うだけなんだけどな、って。
白黒つけようとするグレーのない議論が苦手なのであまり言ってこなかったのですが、私の想いを隠す必要はないのかな、と思いこの記事を書くに至りました。


普段は「豚かわいい」しか言っていないけど、豚がかわいいだけで、生半可な気持ちでこの業界に入ったわけじゃない。
私の産業動物に対する死生観がつくられた原体験のお話です。

(重めです、共感性が強い方は引き返したほうがいいかもしれません。)



大学でと畜の実習をした話

大学では畜産のコースを取っていたのですが、実習のひとつに鶏をヒナから育てて最終的にはスモークドチキンにするという授業がありました。

生体から食べられる状態にするわけですから、当然と畜(殺すこと)も自分たちの手で行います。
2ヶ月かけて交代で餌やりをして育てた鶏を、丁寧に研がれた包丁で屠っていく。

「躊躇わないでください。一息にいかないと血抜きがうまくいきません。血が残った肉はとても食べられない肉になってしまいます。」

技術的な話も聞きながら、目の前で動物がスーパーで見慣れた「肉」になっていく。その光景は畜産と食が繋がる瞬間で、世の中一般的には隠されているけれど目をそらしてはいけない部分だ、と強く感じた体験でした。


オーストラリアで動物の死と向かい合った話

ワーホリ中住み込みで働いていたアニマルファームでは、基本的に私ひとりでファーム全体、全ての動物を見ていました。

ある日、放牧されているヤギの群れを見回っていたら、弱って倒れているヤギがいる…。
やばい!と思って近づいてみると、生きてはいるけれど既に目が野鳥に潰されている状態でした。起き上がることもできず後は衰弱死を待つのみですが、放っておいたら1日以上は苦しみそう。しかも雷が鳴り大粒の雨が降り始めていました。季節は冬。

こんな時、農場のオーナーがいたら彼が苦しまないよう逝かせてくれます。しかし彼はしばらく不在の予定。どうしたらいいかわからなくて電話で指示を仰ごうとしますが、繋がりません。

夜になり暗くなる空、激しさを増す冷たい雨。
こんな中に弱って動けないヤギを放置することはできませんでした。

ヤギは重くて、雨の当たらない場所に運ぶことも、温めてあげることもできない。
じゃあ、

私が、やるしかない。



楽にしてあげたい、その一心で持っていたナイフを取り出し、喉元に当てました。


うまくいかなかった。
でも、手を緩めることは絶対にできなかった。はやく、はやく、と祈りながら最期まで力を込めた。

終わってから、未熟でごめんねと何度も謝りました。


私のこの対応は間違っていた点が多いのは承知しています。当時は半分パニックで判断ができなくなっていたのかもしれません。

先の実習から、生体を肉にする過程から目を逸らすべきではないという気持ちはずっとあったのだけど、(ペットを含め)動物を飼うということは、食べるため以外の死へもどのように向き合うかが試されるのだなと思い知らされました。
あのまま自然に任せて放っておく選択肢もあったけど、可哀想だから手を下せない、がより酷になることもある世界。

気持ちだけじゃ話にならなくて、知識と技術を身に付けなくてはいけないと痛感した経験でした。

だから今、養豚場では直接豚に手を下すことはないけれど、様々な事態に対応するために幅広く知識と技術を蓄えておく必要があるなと思い勉強しています。


内モンゴルの放牧民に羊をご馳走してもらった話

大学では中国内モンゴル自治区の草原の研究をしていたので、何回か現地に行っていました。
その中で、協力していただいた(元)遊牧民の方の家にお邪魔した際、歓迎の印として飼っている羊を丸々1頭締めていただいたことがあります。

その羊とお酒で飲んで食べての大宴会(という名の、中国特有の飲ませ合い)をしたあとに外に出たら、羊の皮がポーンと無造作に放られていました。

なんてことないのだけど、
ああ、羊を食べるってことは、動物を飼って屠って生活するってことは、この人たちにとっては普通のことなんだ。何も不自然なことじゃないんだ。
と思ったことが印象に残っています。

彼らも今は定住し、都市に売るために羊を飼っているわけだけど、形が多少変わっても畜産は文化として根付いている。それを否定することは彼らを否定することでもあるんだなあ、と感じました。


そんなこんなで

確かに畜産業界は倫理や食糧問題などいろんな問題をはらんでいるけど、生きるための営みの中であるのは可哀想とか生易しいものじゃなくって、技術と覚悟、感謝なのかなと。

動物を飼う人が動物に対して傲慢かといったらそれは違うと思うのです。
どうしたらいいか日々考えているのよ。

いろんな考え方があるから自分が良いと思う行動をすればいいけれど、私は美味しくお肉を食べたいなあ。



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