PARCO劇場オープニングシリーズ「大地」観客よ死ぬな!!われわれはお前が必要だ!!

8月1日
PARCO劇場で上演中の「大地」を見た。
止まらない思いを書き殴ったものなので、文体が成り立ってない上に、ネタバレも含みます。

朝9時から粘って粘って30分電話をかけ続けた。やっと夜の部の当日券を手に入れた。チケットは12,000円。オンラインに3,000円かけるよりは、劇場に行きたいよ。 初めてのパルコ。
コロナ対策として、人が密集しないように、電話で予約、その他はキャンセル待ちってすごいシステムだ。各電話で1枚、行ったら名前と電話番号の下4桁と整理番号を5分前から整列して、マスクと手袋とフェイスシールドを皆してた。衝立の向こうと、キャッシュトレーにてやりとり、現金のみ。
開場して、並ぶ間隔も全て印付けて、前の人が靴の裏消毒を終えるまでは、進ませない。消毒のあるマットと、それを拭き取るマット。 それが済んだら、手首の検温。そしてチケットもぎり、最後に指の消毒。これ×2体勢だから、これだけでスタッフの数はすごい。 物販はパンフレットの販売、現金とQRコード決済のみ。きっとホントは全部QRにしたいんだろうな。パンフレットの上に袋を載せて、お金を置いたら、引き換えにそれが置かれる。拾って、詰めるのは自分。折り込み束も、長テーブルに置かれて、欲しい人だけ持って行くスタイル。差し入れは禁止。 劇場内飲食用で、ペットボトルのミネラルウォーターとお茶の販売。アナウンスでも、他のお客様に配慮すれば上演中飲んでいいって。

席は一席空けだけど、きっとキャンセルがいっばいでたんだろう。それ以上に客席は空いていた。私の前に当日券居た人とかも、前のセンターとかいたし、私も通路挟んで一番前のほぼドセンだった。
客席は最前もしっかり空いてる。 皆席が見つかりやすいし、お互いに配慮してるからか、劇場内はとても静かで、人がごった返さずに、スムーズにドンドン着席していった。5押しだったけど、アナウンスが入ったら、すぐに扉は閉められて、ほんとに、シンッとした空気だった。
誰かが紙を弄る音とか、ちょっと遅れてきた人が、まだ始まってないのに、あまりの静けさにすごく目立ってた。 最近映画に行ってたから、やっぱり席は違うなと思った。1番大きいのは、人の頭が見えること。映画と違って背もたれが小さい。隣との距離も近い。どんな人がいるのか、空いてるから余計に見えて、これが劇場空間を共有してるってことなのだろうと思った。

劇場のセットは堀尾幸男。大きくて、遠近感が変になりそうな舞台で、広いとこがないから動きにくそうって思った。でも、赤いシートに灯体、大きな美術に、私今日これから劇場で演劇観るんだなあって思った。 三谷幸喜の挨拶からはじまり、「築地小劇場は銅鑼によって始まった。我らも再び演劇を始めよう」と、黒子がでてきて思いっ切り銅鑼を鳴らした。それだけで、なんだかもう涙が出た。演劇帰ってきたんだ。

前半の最後に、座長の「我々から食事を奪えても、想像力を奪うことはできない」ってセリフに、ほんとに今の現状だなと思って、友達の言ってた「演劇やってもいいんだよって言われた気になった」ってのが、すごくすごくわかった。演劇を奪われてる私達も、まだ死んだわけじゃない、どんなにコロナで演劇が奪われていても、私達は死なないんだとすっごく思って、演劇よ、死ぬな!我々はお前が必要だ!っていう黒テントの言葉を思いだした。すごく肯定されて、勇気を貰って、涙が止まらなかった。大泉洋が、参加しようとしてその芝居が切られたことで、ゆで卵を再び食べ始めるとこに、まだ葛藤というか、迷いというか、彼はそうしてしか生きていくことはできないよって、そんな人がいないとイケないんだよって、現実も突きつけられてるような、そんな気分になった。

休憩入った瞬間、人がどんどん中から居なくなって、アナウンスでも、劇場の外のトイレ使うようにいってて、そもそも25分という長い休憩は、換気のためだったんだろうな。もう扉全開過ぎて、人がどんどん出ていくから、まるで公演終わったみたいな開放感だった。

後半始まってすぐに、稽古してるシーンで、大泉洋がずっと声出して笑ってるのが気になって、まるで素で楽しんでるみたい、すごい観客みたいだなぁって思った。他にも演技してるシーンでは、すっごくニコニコして、楽しそうに見てるから、アドリブに笑っちゃってるのかなと思ってた。
恋人というか、その他の人も近づくシーンが無くて、いけいけ!と思うのに、行かないから、なんなんだろうって思ってたら、よく考えたら、この舞台ほぼ相手の体に触ってないんだ!!そうだ、ソーシャルディスタンス!!ってやっと思いだした。
舞台自体が自由に動ける幅を制限して作られて、自分のテリトリーが舞台上に存在してるから、場所の作り的に離れてても違和感ないし、そこからあまり動かなくても、自分のテリトリーにいるって思って、なんも変に感じてなかった。これが舞台のソーシャルディスタンス。触ったら声ださない。顔を合わせたら口元抑えるとか、実はちゃんとやってた。

谷の向こうに追いやられることが決定した時、大泉洋の「演技が下手だから殺されんのか」ってセリフがすごく刺さった。私自身も、別に演劇をしなくて生きていけるはずで、演技下手なのに演劇続けて、コロナによって演劇はなくても生きていけるとわかってしまって、演劇をやる私は死んでしまったなと感じていたからだ。それと、著名人が亡くなればあれだけ騒ぐのに、感染者もドンドン増えて、死者があれだけでていても、私達は何も気にせず生きてきて、普通にただ生きている私達は、いずれ社会に殺されていくんだなと、亡くなった方への無関心とか、どれだけコロナが脅威的なのかというのを、ここですごく訴えられた気がした。

大泉洋が居なくなって、「僕らは大切な物を失ってから気づく」というセリフをミミンコが言ったとき、大泉洋の役柄は大事だったもんなとしか思わなかった。でも、残ったメンバーが再び稽古を始めて、座長が面白いシーンのはずなのに、客席も舞台上も誰も反応しなくて、ただ白けたような静かな空気が流れていた時、私はシーン的にそうなるよなって思ったけど、座長が「観客がいないからできない」って言った瞬間鳥肌が立った。
稽古のシーンで、大泉洋があれだけ笑っていたのは、彼が私達観客だったからなんだってやっと気がついた。観客がいなくちゃ芝居ができないって、正にこういうことだったんだと思った。
見てる時、面白いシーンでは他の観客と一緒に笑って、他の人が笑っているとつられて笑って、一人だけすごいうるさい人とかいると、今の何が面白かったんだろうって考えたりして、言葉で交わさずとも、私達観客はその場を空気で共有していたんだと気がついた。
今はオンライン配信とか、zoom演劇とかいろいろあって、家でもその演劇のコンテンツを楽しめるようになったけど、やっぱりそれは、一人で、他の観客との共有ってことではなくて、その空気感を感じられず、画面の向こうで一人しらけているような、そんな気持ちになる。私たちが奪われたものは、劇場でも、演劇でもなくて、【観客】だったんだ。
家で見られようになった分、観客は劇場に来ない、俳優は魅せる相手がいない、流れるのはただの空気、遠くにいても演劇は見られるってなって、ソーシャルディスタンスを守って、人々は同じ空間を共有せず、どんどん劇場に来なくなってくるんだろうな。観客よ、死ぬな!我々にはお前が必要だ!!という、強いメッセージが、三谷幸喜が一番伝えたかったことなのかもしれない。
劇中でも、演劇は、俳優と本と観客がいればできるって言っていたけど、一番大事なのは観客で、これがまさにソーシャルエンゲイジドアートとパフォーマンスアートの融合で、大事なのは観客の関係性、そこに俳優がいなくとも、それは演劇としてなりたっているのではないだろうかと思った。ジョン・ケージの4分33秒が成り立つ意味を、私は真の意味でやっと理解した。

それを皮肉るように、解放された彼らの中では、映画俳優のみがバリバリに活躍し、他の舞台俳優たちは二度と舞台に立たなかったといっていた。映画俳優は、観客がいなくても、撮影して、映画館で流す上に、映画館に人が来なくても、のちの映像配信などで、稼ごうと思うえばいくらでもできる、映画館は最悪なくてもいい。観客は物を食べたり、飲んだり、他の客があまり見えないような客席の空間の中で、プライベートな空間をそこに作り出している。だから、映画俳優は、観客がいなくてもバリバリに活躍できたけど、舞台俳優だった彼らは、観客がいないということを知ってしまったから、二度と舞台に立てなかったんだろうと後から気づいた。見てた時は、懺悔とか、後悔からかなと思っていたし、映画俳優は、「オーディションに受かったものが落ちたものにしてられることは次に進むことだ」って言っていたから、強いだけなのかなって思っていた。でもそうじゃなかったんだ。では、ミミンコはなぜ舞台俳優を続けられたんだろう。それを乗り越えるほど強かったから、それとも気が付かなかったのか、ここだけは私の中で謎のまま。

カテコで、観客が割れんばかりの拍手をして、人がお辞儀をすれば音が大きくなり、全員には手を上げて拍手をし、手を振る人もいて、それを浴びている俳優たちを見たら、やっぱり、これが演劇だと思った。同じ思いで周りの観客と一緒に拍手を上げる、その大人数の音が、体を乗り出して精いっぱい叩く姿が、フィナーレという空気感が、五感でびりびり感じ取って、物語の感動とかそういうのじゃなくて、自分が演劇の空間にいるってことと、私達がみんな演劇を求めていたってことと、今ここに演劇が存在してるってことに、血が沸き上がって、涙がどんどん押し出された。私はこの数か月何やってたんだろうって、やっと目が覚めた気分だった。拍手を浴びる俳優の、満足そうな顔や、その景色を焼き付けんとする姿に、彼らはこれを待っていたんだと、ひしひし伝わってきた。

最後のアナウンスで、ソーシャルディスタンスのために観客もすぐに我に返って、立ち上がって、どんどん帰っていったけど、三谷幸喜が「また劇場で会いましょう」っていったのが、次回の約束、観客と俳優の約束って感じがして、最後にそれでぼろって泣いて、そそくさと帰る観客を見ていたら、本当にいろんな思いが止まらなくなった。

本当に、今回観に行けてよかった。見てよかった。私は演劇が好きだなって改めて思った。

【追記】
これを踏まえて、私はzoom演劇は演劇じゃないって思ってる。
そして、ゴーチがやってるトラック演劇も、演劇じゃないのかもしれない。
これは観客がいるけれど、あくまでそれは一人だ。観客達は、観客と俳優の1:1の関わりではなく、俳優:自分以外の観客:自分という、三者との関わりを求めているんじゃないだろうか。そして、それが成り立って初めて、演劇は成り立つんじゃないかと、今回自分の中で演劇の定義が変わった。

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