その「よかれ」は誰のため?
「よかれ」と思ってやったことで気まずくなった経験はないだろうか?
「よかれ」に悪意はない。が、トラブルを引き起こしてしまうことが多いのも事実。
なぜ「よかれ」がトラブルの素になってしまうのだろう。
「よかれ」の正体
「よかれ」には誰に頼まれたわけでもないのに、自分がやることで相手が楽できたり、いい思いができたり、失敗を避けることができるだろうという自分の予測に基づいて、自分の意思でやることという意味が、その陰にある。端的にいうと、人は他者の役に立ちたいと思っているのだ。
自分が勝手にやっている分にはおそらく問題にはならない。
そこに相手の反応に期待がかかるようになると、「よかれ」をやる人と受ける人のバランスに微妙な変化が生まれる。期待も高じると承認欲求に発展して、「ここまでやってあげたこと」を認識して感謝してほしいと思ったりしないだろうか。
そもそも人には行動の癖や好みがある。面倒なことが嫌いな人がいる一方で、何でも自分でやってみたいと考える人もいる。グループで物事を進めるのが好きな人、苦手な人。よく知っている相手への「よかれ」だと思っていても、実は案外相手を知らないなんてこともあるだろうし、そこに悪意がない分、めんどうくさいことになる可能性だって十分にある。
「よかれ」の何が問題なのか?
まず、相手に期待しているという自分の心の動きに気づかないこと。「よかれ」はあくまでも自分の厚意であって、相手から頼まれたことではない。なのに期待が生まれると、期待に反した反応に対して怒りを感じるようになる。
「ここまでやってあげたのに、何でわからないの?」
わからないよね。だって頼んでないんだもん。
そして、「よかれ」が相手の思いと反対方向を向いていた場合。これは「よかれ」を受けた側に怒りが訪れる。
「何でそんなヨケイな事してくれたの?誰も頼んでないじゃない!」
「いやいや、よかれと思ってやっただけなのに、何でそんなふうに言われなきゃいけないの?」
悪意のない純粋な厚意なのに、なぜこんな悲劇に陥ってしまうのだろうか。
それは、「よかれ」が相手が望んでいることではないからだ。相手に確認することなく、自分の思い込みで「これは相手の役に立つはず」という勝手な確信に基づいた行為。役に立たなかっただけで済めばいいが、時には相手のプランとは違ったりするかもしれない。
で、「よかれ」は誰のため?
そうなると、「よかれ」はいったい誰のためのものなのか?相手の役に立ちたかったはずだったのでは? 厚意、つまり親切や思いやりから湧き上がる自然な行為、から脱した時に「よかれ」は自分のために変化したと思うのだ。
他者を思いやる心は、人として大切なのはいうまでもない。ただ、そこに「これはやってもらえると嬉しいしありがたい。でも、ここから先は超えないでね」という見えない境界線があるのだと思う。その線と自分との距離は人それぞれなのが難しいところだが、とにかくこの線は超えないように気をつけるのが大切だ。超えれば、それはお節介でありありがた迷惑になってしまうのである。
「よかれ」でつまずかないために
では、何をどうすればいいだろう?
こちらの行為がどこまで厚意と受け止めてもらえるかどうかを適切に判断することがポイントになるのだが、この受け止め方は人によって千差万別。属性や生活パターン、嗜好など、どんどん多様性が広がっている時代。それを理解した上で、厚意の範囲を状況に応じて判断していくしかないと思う。そして、少しでも自信がない時は、臆することなく相手に確認する。境界線を踏み越えられることに比べたら、事前に聞かれることをうざったいとは感じないだろう。
そして、相手の選択・判断の邪魔をしないこと、なんじゃないかと思う。選択の幅が増えることは悪いことではないと思うが、「よかれ」をどう受け止めるかは相手しだい。受け止める側も、「どうもありがとう。これは私が自分でやるから大丈夫」とサラッと言えればいい。境界線の存在を知らせることで、お互いにムダなく気持ちよく過ごすことができる。と思うのだが、いかがでしょう?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?