自分自身に「私ってすごい!」とか「よく頑張ったね」とか言ったことがない、言ってる人を見てずっとすごいなと思っていた
よく「私よく頑張ったな」とか「エラいぞ私」とか「私って天才」とか自分を褒めるというか、労うというか、そういう言葉を自然に出せる人っているけれど、そういう人を見るとすごいなと思ってしまいます。
私自身はそんな言葉を自分自身にかけたことなんてありません。
「頑張った自分へのご褒美として〇〇」という言葉を使う人もよくいますが、日常的にそんなことを言える人はすごいなとやはり思います。
自分にはそもそも、自分に対して労うとか褒める言葉をかけるという発想自体がありません。
でも自分に対して労いの言葉や褒めの言葉をかけるということは、とても大切なことなのだとカウンセラーの先生は言っていました。
これは自己肯定感を高めるためにもとても必要なことで、本当は成長の過程である子供の頃にやっておけたら理想的なのだそうです。
しかし、私自身もそうなのですが、子供時代に家庭内が不安定な状態だったり、情緒を育むために安全な場所ではなかった場合は、自分自身の気持ちを大切にすることを学ぶ機会を得られず、心が抑圧されます。
私の場合、あまりにも長い間心が抑圧されたままだったので、自分の本当の心(子供の心)が放置されたままでした。
そしてその子供の心は、今でも私からの労いの言葉や褒めの言葉や慰めの言葉を待っており生き続けています。
そのため頻繁に私に訴えかけてくるのです。
「ねえ褒めて褒めて!」「ねえ頑張ったって言って!」「ねえ慰めて!」
でも私にはどうもこの子の訴えていることが何なのか上手く聞こえないし、理解もできず、いつもちがうように解釈してちがう対処方で答えていました。
子供の私の憤りとか悲しさとかを埋めるために、自分の心が満足する趣味を見つけたり、スピリチュアルや心理学や自己啓発法など様々な知識や情報を集めたり、知的好奇心を刺激するような事を探したりしていたのです。
でも子供の私はそのようなものを求めていたのではありませんでした。
だからその子の訴えが止まなかったのです。
その子はただ頑張った時には「頑張ったね」と、何かを成し遂げた時には「偉かったね」と、何かで活躍をした時は「スゴいね」とか、何かひらめきがあったなら「天才!」とか、悲しかったら「悲しかったね」とか、怖いことがあったら「怖かったね」とか。
ただそのような言葉をずっと私自身からかけてもらいたいだけだったのです。
そのような言葉1つで心の中の子供の私は1つ強くなれることができるのです。
もう私は中年の年齢になってしまったけれど、このような人生を送ってきたことにも意味があったのだと思うから、これからは自分の中の子供にいつも言葉をかけてあげながら生きていこうと思います。