春がこんなにもいい季節だったとは
この春に向け、秋冬にいろんな種類の花の種を蒔いた。
これまで花に大した興味も持たず、名前もほとんど知らないまま生きてきた私なので、蒔く時点で咲く花の姿をイメージできてはいない。種の袋に写真はあるがそれもよくは見ず、どこから何が出てくるかはお楽しみという感じで春を待っていた。
この「先入観を持たない」というのがすごくよかった。完成形を知らないからこそ経過を純粋に楽しみ、これからどうなるのかと想像が膨らむ。先の分からないドラマを楽しむのと一緒で、これは花を知らない初心者の特権だと思う。
ある日、背が高くなってきたある茎の先に街灯のような大きなつぼみができた。
この先どうなるのか想像が膨らむ。「実はくす玉だったらどうしよう」とか「花は咲かずに電気点いたらどうしよう」とか「パカッと開いて、今週のビックリドッキリメカ発進!したらどうしよう」とか……アホな想像をしながらその開花を待っていたある朝。
そのデカさにだったか、その愛らしさにだったか、どちらが先かは分からない。ふわふわと揺れているそれに近づき、対面した瞬間あまりに驚いて声が出た。
お花紙ではないかと思わず指先で確かめてみたくなるくらい、ふぁっふぁっな花びら。私の友人はこれを見て「くるよさんの服みたい」と言った。
隣のつぼみを改めて見てみるが、やっぱりこんなにどでかい花が出てくるとは思わない。このつぼみの中にどうやってこの花びらを格納していたのか。それが不思議で不思議でたまらない。パラシュートの専門家ピコ・ノートン(by宇宙兄弟)に見解を聞いてみたい。
何はともあれ、「♪おっか(丘)の上〜」に咲いていたのはこれだったと分かり、リリースされて51年目のかの名曲が、私の脳内で初めて動画付きになった。
ヒナゲシ(別名:虞美人草)という花を知った。知ってしまった。次はあのつぼみから何が出てくるのか分かってしまう。初めて知る喜びとともにやってくるのは、もう知ってしまったといううら寂しさであることを教えられる。
ちなみにふぁっふぁっの服を脱いだあとはこうなる。
この姿を見て、ひなげしへの愛はますます深くなる。微笑まずにはいられないフォルム。どのフェイズも楽しませてくれる唯一無二の才能に拍手。
これから開くつぼみたちが、我も我もと列をなしている。別の色も咲くのかが目下の楽しみ。ここ数日続いている雨風がおさまったら、そのつぼみから大きな花びらが開いてくる様をタイムラプスで狙ってみたい。
勤めていたころの春は「あ、桜が咲いてるな」くらいなもんだった。年度変わりの怒涛の忙しさに追われ、春の偉大なエネルギーが生み出す美しさ、力強さに気づく余裕がなかった。その上、花粉やら黄砂やらで、春先は体調が良くないのが常。春という季節を好きになれなかったのは、そのしんどさを上回るだけの良さを見出せていなかっただけだと思う。
土を触り、花や野菜を育てるようになって気付いた、半径数十メートルの世界線。季節で変わる光の方角。時間で変わる空気の匂い。渡り鳥の声。ひらひらと漂う蝶の群れ。足元で繰り広げられているものすごい数の命の戯れ。今までもそこにあったのに気づいていなかったものが見える、聞こえる世界。
この春はとりわけ早緑の美しさ、草木の息吹をまじまじと観察している。寒々としていた木々の枝が芽をつけたと思ったら、それがあっという間に緑に変わる。土という土からニョキニョキと現れる何十何百種の命。地中で溜めたエネルギーを一気に放出していくその様から目が離せない。エネルギーのある季節は夏だと思っていたけど春だ、春。
三行塾でもお世話になった近藤康太郎さんが最近Xでこんなことを呟かれていた。
「新緑は、時速4キロがちょうどいい」
これは本当に名言だと思う。しかし、今までの自分ならおそらくその言葉に目が留まらなかった。「ほんまそれー」と共感できる今の自分に変化を感じている。歩くくらいのスピードでなければ見えない世界が、ものすごいエネルギーをくれるということを知った春。
サムネイルの花は、この春咲いた花の一部。種を蒔いて迎える春が、こんなに楽しいもんだとは。植物に限らず、「種を蒔く」っていうのは楽しみをリザーブすることなんだなとしみじみ感じる今日この頃。次は何の種を蒔くか。それがみんなが楽しめものであるといい。
追記:記事をアップした翌日、赤いヒナゲシが咲きました。