ウイッシュ観てきた
お久しぶりです。昨年、本当に病んでいた時期のノートを見返して、あそこから私本当に頑張ったなと思いました。またそのあたりの話は後ほど別のノートで書くとして、このページではディズニー100周年記念作品『ウイッシュ』の感想を書こうと思います。
公開を楽しみに待っていたというのに観に行くのが遅くなりました。小さな劇場の小さな箱で観てきました。
twitterで賛否両論っぽいことだけは察知していたのですが、登場人物の名前すらあまり分かってない状態でいざ出陣。
全体の感想
結果。大号泣~~~! 個人的にディズニー映画の中では、『プリンセスと魔法のキス』『美女と野獣』『眠れる森の美女』の次くらいに好きかもしれません……。
なにがいいって!!! 自分の夢は上手くいかんかもしれんけどとりあえず自分で努力してみろ!というか、自分でオーナーシップ持ちたいし、持たざるを得ないんだよ、もうこの時代は。と勝手に感じて勝手に共感したからです。
簡単にあらすじ(雑・主観)
ロサスの王様は偉大な王様! なんと! 国民が18歳のときに王様に預けた願いを月1で叶えてくれるの。だからロサスは願いの叶う場所。みんな願いに付随する不安とはおさらば、心安らかに暮らしているのよ。
主人公のアーシャは王様はを信奉しつつも、「自分の家族の願いが叶って欲しい! 叶うべきだわ!」なんて思ってる国民のひとり。
王様の弟子になろうと思ってその面接を受けたんだけど、なんと……!!!!??? エッ、王様わたしたちの願いは全部は叶わないの!? 王様が叶えてくれない願いなら本人に返してよ!
ぜったい取り戻してやるわ!
~アーシャの願いが王国の革命につながっていく~
みたいな感じのストーリーです。
鑑賞しながら思ったこと3点
①賛否両論わかれるのはよくわかる
②マズローの欲求段階を思い出した
③キャリアオーナーシップならぬウイッシュオーナーシップ
①賛否両論わかれるのはよく分かる
なぜかというとリーダーシップのあり方が昔と今じゃ変わってきているからです。そして過渡期だからこそ派閥にわかれる。
どんな風に変わっているかというと、「強く民衆を率いて自分の目指す理想にガンガン進んでいくカリスマリーダーシップ」から「一人ひとりの個性を引き出し、本人が自主自律で成長することをサポートするリーダーシップへ」。
まあアーシャ(主人公)が後者かと言われると、彼女は前者も後者の素質も持ってるタイプで、権力をもったら前者(カリスマ系)になりそうな気がしますけどね。王妃は後者(サポート系)のタイプな感じがしました。
ただ、アーシャの持っている理想は後者の派閥に受け入れられやすい内容だと思うんです。だって「みんなスター」であり、「願いを個人に返してほしい」ですからね。
別にどっちがいいでもわるいでもないんですよ。単なる好みもしくは、大衆の傾向がそのときの「正義」をつくり「悪」を創り出すわけですから。
そして賛否両論になるのは、ここでどちらが好みなのか。「願い」に対してどういう想いをもっているのか、が関わってくるのかなと思います。
今回のヴィランのマグニフィコですが、公式ではかなり邪悪なように言われていますが、個人的な解釈だと、守ってあげよう自分が嫌だったことがもう起きないように制度も作ってみんな安らかに生かしてあげたい。自分が苦しんだような世界はもう嫌だ。そんなのじゃない王国を創りたい――そんな一心で努力し、あの国を運営してきた。
なので最初のアーシャの歌には偽りがなく、真実、偉大な王様なのだと思います。
ただ、彼はスターの登場で追い込まれてメンタルが不安定になってくると「これだけしてやったのだから感謝してしかるべきだ」「これがお前たちにとっての幸せだろう?」「なんて無礼な!恩知らずめ(この歌大好き)」と「自分が与え与え与え」まくっていたことに「感謝しない」「抗議してくる」民衆を非難し、あんなにも大事に大事に、大事に、守ってきた願いを壊し始めてしまいます。
わかります。こちらがやってあげた厚意・善意が無碍にされてムキーっとなる気持ち。こんなに頑張って魔法覚えたのは自分やぞ!? お前らはそれに乗っかってるだけやからな!? 荒唐無稽な願いももしかしたら叶うかもしれへんという期待を持たせてやってんねんぞ!? 願いが壊れてしまうことは不幸だが、叶うかもしれない状態は幸福やろ!? ちゃんと守ってんねんで!? しかもずっと願いを意識してると疲れるやろうからそこもかんがえてやってんのに……なんで……こんな……恩知らずめ!
他者貢献が強い人は、そもそも承認欲求が強い人だと(個人的に)思っているので、メンタル不調になったときに「感謝」を求めるのは、ザ泥臭い人間って感じがして親しみやすいです。
さて。私がアーシャとマグニフィコに感じたのは、「願い」という概念に対する捉え方の違いです。
違いをいう前に共通していることをいうとすれば「願いはその人を動かす原動力」という部分です。ここが同じだからこそ「願いを叶えることで民の心をひきつける王様」と「願いを叶えてほしいと集まる民」という構図ができると思います。
では逆に相違点はなにか? 個人的な解釈では「願い続けることができる(願いがいつか叶うかもしれない)状態で満足できるか」です。
マグニフィコはイエス。彼は実現しなくても「願い続けることができる」状態が大事。「願いが壊されないこと」が何よりも大事なのでしょう。それは彼自身が「願い」を叶えようと努力をしたり、「願い続ける」期間も短いままに、家族の喪失をもって「願いが絶たれてしまった」からと考えています。だから彼にとっての最上目的は「願いを守ること」。「願うことすらかなわない」という彼自身の辛い経験を誰にももう味合わせたくない。だからこそ、国民の願いを集め、「使うこともなく」ただただ守って、その中から吟味して、王国の秩序を乱さないものについては「叶えてやって」いた。
彼にとって「願いが実現する」ことはオマケなのではないでしょうか。
そもそも彼自身はとてつもない努力をして魔法を学び、今の国を創ったわけですから、王様の力で叶えてやるというのは本当にただの「ボランティア」。
つまるところ、製作者の意図は知りませんが、いち鑑賞者として、彼は「自身の境遇から"願いが理不尽に絶たれてしまうのはおかしい"だから"願いを守る"ことが目的。とはいえ願いが叶うかどうかは努力か運。どっちにしろ"自分では叶えられない人たち"だから預けてきたのだし、叶えるか叶えないかの選択権は、"守ってあげている"己にある」というお節介焼きというか、亭主関白というか、俺のおかげでメシくってんだろ的なアレを感じました。ただこれも、彼自身の幼少期は、そうやって彼や彼の家族を守ってくれる人がおらず、彼自身はそうやってでも守ってほしかったのではないかと思います。
最初に"「願い続けることができる」状態が大事"と書きましたが、その状態が持続できるロサス自体が彼にとっての「願いそのもの」だったのかもしれません。だから、それを壊そうとしてくるスターとアーシャが怖い。聞く耳を持てず、対話ができず、排除しようとする。
少し切ないなと思うのは、おそらく彼もメンタルが安定していれば禁断の書に手を出すことはなく、あれだけ大切にしていた願いを壊すということはしなかったでしょう。自分がされて嫌だったことを他人にし返してしまう。これこそが、高ストレスに苛まれた際の人間の行動って感じで可哀想でもありました。ここに関しては王妃にもう少し頑張ってほしかったですが、本人を止められる人をもっと作っておくべきでしたね、というのも思います。
次、対するアーシャ。彼女は「願いはいつか叶うもの」「願いは叶えるもの」と思っているのではないでしょうか。これはそういう国をマグニフィコが創ったのですから、住民がそう考えてしまうのは仕方ないことでしょう。
だからこそ、自分の祖父の夢が「叶わない」と聞かされて、憤怒してしまう。「願いは叶えるものなのに」。
「王様が叶えないなら、本人に返してあげては」というのは、非常に健全な思想だと感じました。王様は守ることに固執してるけど「願いの内容も忘れて、王様が決定権もってる」ってそれもう「願いが絶たれた」のと同じじゃない??? とアーシャは思うのではないでしょうか。
まあ願いが戻ってくるとと全部自己責任になるので、諦める人も出てくるでしょうし、今より鬱っぽい人増えそうだと思いますが。自己責任になり、自律して願いや目標を持ち続けるのって、わりとしんどいですからね。その瞬間、願いは泥臭い努力になりますし。
一方、王様に差し出す願いは泥臭い努力とは無縁です。努力するのは王様で、みんなは願えばいいんです。
自分が主体者になるということはつまり、泥臭く生きていくということです。きらきらと夢を見ているわけにはいきません。
ただ、「願いは人を動かすエネルギー」輝くための力でもある。
ここでマグニフィコともう少しお互いが歩み寄って対話ができればよかったのですが、二人とも芯が強いというか、頑固というか、おそらく正義感が強いのでしょう。対立してしまい、あとは映画の結末です。
②マズローの欲求段階説
倫理の授業でやったアレです。
人間には5段階の欲求があり、最下層の生理的欲求から順に満たされていく……というやつです。
最下層から「生理的欲求、安全欲求、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求」にどんどん欲求が高次になります。
この映画を見ながら、私は、この欲求段階のことをめちゃくちゃ思い出しました。
おそらく、マグニフィコの幼少期は、家族を失うという「安全欲求」を欠き、だからこそ所属や愛情などの「社会的欲求」も満たされないものだったのではないでしょうか。それを自身の努力により、王国をつくり、妻を手に入れて、国民を手に入れた。だからこそ物語時点では「承認欲求」が肥大化し、ここまでやってきた俺に「感謝してしかるべきだ」という欲求を強く意識している。
(まあ、現実的じゃなさそう……と思うようなことも、マグニフィコのおかげで夢見れるわけですから、それくらい感謝してやれよとも思いますけどね)
一方で、治安もよく、月1で夢がかなうロサスで生まれたアーシャは家族・友人にも恵まれており(父親は亡くなっていますが)、おそらく物語冒頭時点で「承認欲求、自己実現欲求」が強いと考えます。
というか、ロサスに生まれた若い子たちは「自己実現欲求」がはちゃめちゃに高いと思います。そもそも「願い」や「夢」って、人によってそこに捧げる熱にわりと濃淡あると思うんですよね。ただ、時代として「願いを持て、自分で考えろ」といわれる時代もあれば「願いなんかいらん従え、もしくは、みんなでこの理想を目指そう」といわれる時代もある。どんな時代でも「願いに突き動かされ、それがないと無理!みたいな人」もいれば、「なんとなくで流されるほうが楽な人」もいる。
でも、ロサスは「18歳で願いを預けるか預けないか選択しなければならない」つまるところ「18歳までに、叶えてもらえるかもしれない"一生のお願い"を決めないといけない」のです。この構造は、自分らしさや、自分を本当はなにをしたいのか、自分は何者なのかを、よくよく考えさせると思います。
(かくゆう私もギリギリZ世代で、「世界にひとつだけの花」を小学校時代に何度も聞いて大きくなった&自分でキャリアは考えろ的な指導をうけてきたので、私らしい私だからこその人生を歩まなければならないという強迫観念をもっています)
この二人の争いを見ながら、会社の中で起きている上司部下の価値観の違いの対立を思い出し、胃がキリキリしました。別に対立しているだけであれば、お互い「正義」でも「悪」でもないんですけどね。
今回はマグニフィコが願いを壊し始めてしまった(他人が預けたものを勝手に破壊した)ことで「ヴィラン」になってしまった。
アーシャもヒーローではないかなと思いました。なんというか、彼女は自分に対して正直に「自分らしい」動きをしたのではないでしょうか。明言されていなかったと思いますが、彼女の願いは「みんなの願いを」特に「自分にとって大切な人の願いを叶えられる存在になりたい」だったのではないかと思います。だからこそ、祖父の願いがかなえられないことに憤り、星に願えばスターが降ってきて、最終的には魔法の杖を手に入れた。
ただ、彼女は杖を手に入れただけですから、ここから努力しなければなりません。それは「願う」だけではなく、自分の力で。
一番いい師匠になってくれたであろうマグニフィコは価値観の違いからの対立とそこからくる過ちに立ち向かう形で倒してしまったのですから、彼女も自分で努力するしかありません。
③キャリアオーナーシップならぬウイッシュオーナーシップ
これからの時代。みんなが望む理想の暮らしも、理想の幸せも、俗にいう普通の幸せなんてありません(と私は思っています)。
また、日本では長らく私達を守ってくれていた「終身雇用」が崩れさり、私達は自分で自分のキャリアを決めて、自分で頑張るしかありません。周囲のサポートは得つつですが、目的地や理想像も自分で描くしかないのです。
そんな時代に描く「願い」としては、とても現実的な話だったのではないかと個人的には思いました。
と、まだ整理しきれていませんが、観終わってすぐに考えたことを垂れ流した感想でした。