つぶやき 令和の米騒動と台湾米(自給率)
昨(2024)年のいわゆる「令和の米騒動」について続けて書き(台湾米、米騒動)、前項(農水省)では農林水産省への不信感に触れた。
書いていて思い出したことがある。20年ほど前のこと。当時わたしは中国・北京で働いていた。中国の存在感がどんどん増して、首都という場所柄各企業のトップクラスも駐在していたし、日本大使館の規模も大きくなった頃で、各省から出向という形で日本大使館に勤務する中央官僚も多数いた。一方で日本人社会はある意味「狭い」ので、そういった人たちと顔を合わせる機会も多かった。
大使館の経済部には農水省から出向している人もいた。偶然同じ県の出身だったこともあり、ほかの人も交えてよくいっしょに飲んだ。とある席で、わたしの実家は専業農家だが、郷里では耕作放棄地も増えており、日本の食料自給率の低さが心配だ、といった話をしたことがある。自分自身がある意味「離農」した立場であることは棚に上げて、だったが。
件(くだん)の官僚氏は
「二三四さんのお父さんたちもいつまでも田んぼを植えたりはできないでしょう。ほかの農家もそうですよ。もっと稼げる農業にならないと」
といった趣旨のことばを返した。
わたしは、自分が聞きたかったことに正面から答えてもらっていない印象を受けてちょっとモヤっとしたが、両親たちが「いつまでも田んぼを植えたりはできない」ことは確かなので、ついその先を話しそびれた。
あとで考えるに、官僚氏は言外に、わたしの両親たち世代――昭和一桁から10年代生れ、当時60~70代――のような零細農家はいずれ消えていくのだ、もっと大規模の儲かる農業にシフトしていかないと、ということを言いたかったのだと思う。
ただし自給率向上への答えはなかった。わたしがモヤっとしたのはそこの部分だったかもしれない。もしかすると官僚氏は自給率向上には(あまり)関心がなく、ニッポンの農業をいかに「儲かる産業」にするかを考えていたのではないか。
最近は、この官僚氏だけでなく、農水省という役所は農・林・水産業という各「産業」の効率化、収益化の向上を図ることこそが目的で、そこで働く人々――農家や漁師や林業に従事する人たち――を守ることには関心がないのではないか、と思うようになった。つまり、産業の支え手は、国籍も、継続性や伝統、歴史も、地縁も血縁も関係なく、どんな人でもよいのではないか。極端に言えば機械でもロボットでも、オートマチックのシステムでも――と。
農業の現状について少し調べるだけで、産業としての農業とそれが組み込まれている日本、そして世界のシステムは、ふつうの日本人が考える「農業は食の根幹で、文化の支え手ですらある」という概念が吹っ飛ぶ。官僚氏はある意味においてそれを予見し具現化しつつあった「だけ」かもしれない。なにせ、官僚の中でもかなりのエリートだったから。
そんな中央エリートに素朴な「自給自足論」への回答を期待したわたしが単純すぎたのだろう。世界はもっと違うところで動いていたのだ。当事者(農家)の多くもそれを知らなかったし、いまもそうかもしれない。
(「再び台湾米①」へ続く)