文字を持たなかった昭和 帰省余話(2024秋 8) わが家の跡
昭和5(1930)年生まれで介護施設入所中のミヨ子さん(母)の様子を見に帰省し、数時間ながら外出させ郷里へ連れて行ったお話を書いている。入所後初めて施設(グループホーム)を訪ね、久しぶりにミヨ子さんと再会した当日、車椅子をトランクに積んでレンタカーを走らせた。有料道路を下りふるさとに近づいたところで、ミヨ子さんはその場所の地名を正確に言い、わたしを驚かせた。
車はだんだんふるさとの集落へ近づいていく。わたしはヨ子さんの記憶を呼び覚ますべく、通り過ぎる集落の名前も順番に伝える。ふるさとへ向かっているのだと実感してほしいのだ。
車は国道から集落の中に入り短い坂を上がった。ミヨ子さんが60年ほども過ごした嫁ぎ先はこの坂の途中にある。60年以上も上り下りしたこの坂、そしてここから見渡せる小さな集落を、ミヨ子さんが忘れているはずはない。
午前10時半過ぎ、ミヨ子さんにとっての「わが家」、わたしにとっての実家があったその場所に車を乗り入れた。家屋はもうないが庭はほとんどそのままだし、庭の先の石垣を組んだ畑もほぼ変わらない。いまはここで息子のカズアキさん(兄)が週末を中心に家庭菜園を営んでいる。家屋を撤去後の一時期は荒れていたが、家庭菜園を始める前にカズアキさんがきれいにしてくれたおかげで、以前の面影を取り戻しているのだ。
振替休日だったこの日もカズアキさんは菜園の手入れに来ていた。もともと「母ちゃんを連れて実家跡に行くなら連絡してくれ」と言われてはいたのだが、わたしは道中ミヨ子さんに語り掛けるのに忙しくそれどころではなかったため、いきなり乗り込んだ形になったのだ。
「やあ、来たのか」。カズアキさんは畑の草取りをする手を止めて声をかけた。ミヨ子さんはそわそわしている。車を降りたいのだ。
それはそうだろう。ミヨ子さんにとって人生の大半を過ごした場所、人生そのものと言っていい場所だ。生業も生活も育児も、喜びも悩みもほぼすべてここにあった。ある時――台風に備えた避難という理由で――カズアキさんの家に泊まりに行ったところ、台風で家屋が痛んだために帰って来られなくなり、それっきりなのだ。
それでも足腰がしっかりしていた頃は、カズアキさんが畑仕事がてら、お嫁さん(義姉)がミヨ子さんのかかりつけだった病院に行く機会に連れてきてくれることもあったが、足腰が弱くなり、病院ももっと通いやすいところに変えてからは、カズアキさんたちが連れてくることもめっきり減っていた。
そしておそらく、ミヨ子さんがふるさとへ「帰る」のはこれが最後だろう。わたしはそう思ったからこそ、多少無理をしてでも今日の計画を実行したかった。
ミヨ子さんはそわそわと辺りを見渡している。目に入るすべてが、記憶を呼び覚ましていることだろう。降ろしてあげたい。が、ここで時間を取るとあとの行程に響いてしまう。下手するとご飯を食べただけで施設へ帰ることになりかねない。わたしは心を鬼にして言った。
「お母さんごめん、このあとのご飯の時間が決まっているから。ご飯を食べてからまた来ようね」
実際そういう計画なのだ。ただこの時には、午後の時間が押してしまうことは想像していなかった。残念そうなミヨ子さんを促したあと、われわれは敷地の外に出た。