文字を持たなかった昭和492 酷使してきた体(4)指先の切断

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 これからしばらくはミヨ子の病歴や体調の変化などについて記していくことにして、もともとあまり丈夫でなかったことや、農家の嫁としては多少の不調はがまんせざるを得ない背景があったことを述べた。続いて、体に残っていた病気などの痕跡に三つ触れることにし、前項では右足の下肢静脈瘤》について記した。

 前項で述べたとおり、静脈瘤の原因は、若いころの紡績工場勤めで長時間立ちっぱなしで働いていたことによるのだが、紡績工場が原因のもうひとつの「痕跡」を思い出した。それが娘の二三四(わたし)にとって二つ目の、強く印象に残っていたことである。

 ミヨ子の左手の人差し指は爪が短かった。子供の頃に指をおしゃぶり代わりにしていた人の親指の先が、爪ごと変形している感じに少し似ていた。二三四はそのことを長い間、ばい菌が入って爪の形が変形したのだと思い込んでいた。

 田畑の仕事をしているとちょっとした傷からばい菌が入り炎症を起こすことはしばしばある。木の杭や竹竿などの「そげ」(鹿児島弁で棘やささくれのこと)が爪の間に刺さって膿んでしまうこともあった。なにせ、ミヨ子たちが働き盛りだった頃までの「百姓」は軍手や手袋をして農作業するなどありえず、みんな素手だったのだから<211>。

 だがあるとき――もう二三四が中学生ぐらいになっていただろうか。とすれば昭和50年代初めだ――しげしげと母親の手を見ていて、左手の人差し指が右手より短いことに気がついた。
「あれ? お母さん、この爪はばい菌が入って変形したんだよね?」そう尋ねる二三四に、ミヨ子が答えた。
「これはねぇ。紡績工場で機械に挟んで切ってしまったんだよ」

 初めて聞く話。当時紡績産業は勢いを失ってはいたものの、東洋紡だの鐘紡だのは大企業で、ときどきテレビで近代的な大型の機械が糸を紡ぎ布を織る映像も流されていた。あんな大きな機械に指を挟むなんて! 二三四は想像して身を竦めた。

 もっとも、ミヨ子が紡績工場で働いていた昭和20年代後半は、機械もまだそれほど高速でも大型でもなかったかもしれない。その代わりと言ってはなんだが、作業環境の整備や安全管理は最低限のものだっただろう。なにせ、工員が結核にかかるくらいの環境だったのだから。

 顔をしかめて押し黙る二三四に、ミヨ子はぽつりと
「痛かったよ……。何日か休んだね」
と言った。ミヨ子が紡績工場勤めで得たお金の代わりに体で払った代償は、結核だけではなかったのだ。

 不幸中の幸いというか、指は少し短くなった程度で、治ってからの工場勤務にも日常生活にも大きな支障はなかった。郷里に戻ってからの農作業や家事の手伝いも、ふつうにできた。

 縁談も舞い込んできた。こちらは、むしろ多いほどだった。ミヨ子を見初めた同じ集落の二夫(つぎお。父)は「どうしてもミヨ子じゃないと」と、母親(わたしにとっての祖母)に駄々をこねるほどだった<212>。

 しかし、ミヨ子を娶ったあと指のケガの跡に気づいた二夫は
「片輪(かたわ)だと知っていたら嫁にもらわなかったのに」
と言ったという。それがどのタイミングだったか、どんな状況で言ったのかはわからない。指が少し短いくらいで片輪なんて。ミヨ子のくやしさ、悲しみはいかばかりだったか。二三四もまた、娘として父親のこの一言は許せない気持ちが続いている。

<211>昭和中期頃まで(少なくともミヨ子が嫁いだあとの昭和30年代)は、農作業のとき軍手などで手を保護する習慣がなかったことは、「ひと休み(軍手)」で述べた。
<212>このエピソードは「三十一(白羽の矢)」で述べた。

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