文字を持たなかった昭和 二百四十九(正月支度――障子の張り替え)

 昭和中期の鹿児島の農村、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)たちが新年を迎えるために勤しんだ支度として、大掃除について書いた。

 大掃除とともに忘れてならないのは障子の張り替えである。障子本体の移動以外は比較的軽作業なので、姑のハルの指揮の下女衆や子供が中心に行った。

 煤払いの前に庭へ運び出され、石垣などに横向きに立てかけられた障子の紙は、囲炉裏の煙で煤ぼけたりネコの出入りで破れたりしていた。その古い紙を剝していくところから始まる。

 剥す前に糊をふやかすためまず水をかけた。少し置いてから――その間はもちろん別の作業をしている――障子紙が重なった上のほうから紙を剥していく。糊がふやけた紙はおもしろいようにするすると剥がれ、お手伝いの子供たちがいちばん好きな作業でもあった。

 紙を剥し終わったら、障子の桟――組子ともいうらしい。ミヨ子たちは「骨」と呼んでいた――を拭きあげる。桟にも埃がたまっているのだ。きれいに拭いているつもりでも、囲炉裏の煙で長年燻されてきた桟は飴色を通り越して褐色のままで、何回拭いても雑巾には茶色い色が残った。

 そのあと、刷毛で桟に糊を塗っていく。糊は重湯を煮詰めた自家製だった。糊に米粒が混じると仕上がりがきれいにならないので、なめらかな糊を煮るにはコツがあったはずだ。糊作りはハルがいちばん上手だった。

 糊を塗るのも一筋縄ではいかない。薄く均等に塗らないと張った障子紙が乾いたあと凸凹ができるし、薄すぎると紙がくっつかず隙間ができてしまう。もともとミヨ子の家では障子の桟自体に凸凹があった。舅の吉太郎が手先の器用な知り合い、つまり素人に頼んで作ってもらったのではないか、と思われた。そんな欠陥も考慮して糊を塗っていくのだった。

 そして障子紙を貼る。張りはじめがきちんと固定されたあと、紙を伸ばしながら端まで張っていく。張り終わりの部分の紙はカミソリで切って切り離した。その作業を、障子の下のほうから上へ順に繰り返すのである。下から、というのは、紙が上から重なっていないと埃がそこに溜まるからである。

 全ての障子を張り終えたら、夫の二夫(つぎお)の出番である。口に水を含み、勢いよく吹き付けるのだ。つまり霧吹きの代わりである(家には霧吹きがなかった)。こうして全体を湿らせてから乾かすと、張り替えた障子の面がピンと張ってきれいに仕上がった。

 障子は全部で10数枚あっただろうか。障子は毎年全部張り替えるわけではなかった。まだ汚れが目立たない障子は、破れた部分だけを桟に沿って切り離し、大きさに合わせて切った障子紙を張った。新しく張った紙はあきらかにわかるので手抜きした感は否めなかったが、かと言ってまだ使える紙を剥してしまうのはもったいないことだった。

 やがて囲炉裏を使わなくなり、家も改装してサッシ戸を入れるなど気密性が高まると、障子の汚れもずいぶんやわらぎ、障子の張り替えの頻度はだんだん下がっていった。

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