文字を持たなかった昭和 百四十(七夕踊り、その五)
母ミヨ子のふるさとのお祭り「市来(いちき)の七夕踊り」について書いてきた(その一、その二、その三、その四)。
担い手不足のため今年で一旦休止となるその理由をわたしなりに考察する中で、「七夕踊りに参加するのは、すべて男性だった。鉦叩きや小太鼓打ちとして参加するのも男児。口伝の担い手も継承者も男性だけである。薩摩らしいと言えば薩摩らしいが、女性を除外してきたことも、担い手不足に拍車をかける一因になったことだろう。」と書いた。(その二)
しかし、この考察には背景説明が必要だろう。
七夕踊りをはじめとする伝統行事の伝承はもちろんのこと、鹿児島におけるさまざまな年中行事の継承は、年功序列と上意下達を基本とする地域共同体の秩序の中で行われてきた。そこには、男女の役割分担があり、年代ごとの役割分担もあった。日本の多くの地方、ことに農漁村では大なり小なり行われてきたことだと思う。
とりわけ薩摩の武家社会においては、「郷中教育」という、年長者が年少者を指導する仕組みが定着していた。家の中での秩序とは別に、地域の年長の青年が指導者となって、一定の年齢に達した少年たちに武術、読み書きや算術、社会規範などを教えるシステムで、寺子屋のような機能も果たした。青年たちは結婚したらこの集団から退き、教えられていた側が教える側に回ることで、集団の機能は維持された。
明治に入り武家社会が解体され、武士を養成する意味での「郷中教育」はなくなったが、これと入れ替わるように、明治10年代から日本全国で「青年団」が組織されるようになった。「特に農村における青年会組織は、古い若者組の組織を再編しながら発展し、知識の習得、風紀の改善、農事の改良等に活躍する青年の集団としてしだいに注目を浴びてきていた。特に日露戦争を期として、これら青年会組織は、著しい躍進をみせた。これは、戦役中における青年会の銃後活動に注目した政府の勧奨によるものであった。」(文部科学省>学制百年史>四 青年団の発足)<109>
もともと「郷中教育」という雛型があった鹿児島で、青年団はすんなり受け入れられた、というより、次世代養成の新しい形として歓迎されたことは想像に難くない。もとより長幼の序を重んじる土地柄、青年団に入れば先輩から礼儀作法も知識も学べて一人前の「青年」に成長させてもらえるとあっては、男児を持つ親も大歓迎だっただろう。
ただし、『学制百年史』に記載されていない事柄がある。それは、女子を対象としていない点である。
もともと江戸時代の若者組等に変わる組織として考案された青年団は女子が入ることは想定していなかっただろうし、女子が男子に混じって外で活動するなど想像もできなかっただろう。少なくとも鹿児島においては。その性格は、母ミヨ子たちが育った地域ではそのまま受け継がれ、少子化により青年団自体の存続が厳しくなるまで続いたのである。
「七夕踊り」の主たる担い手は、中学生から結婚前までの男子たちが所属する青年団だったがゆえに、「女性は参加できない」ことへの違和感を誰も感じることがないまま、青年団の衰退に合わせるように、担い手不足に陥っていった、と考えられる。
(非常にアバウトな考察です。いつかもう少し丁寧な考察を試みたいと思います)。
〈109〉文部科学省 > 白書 > 学制百年史 > 四 青年団の発足青年団の発足
※写真は当面最後となる「七夕踊り」を記念して製作された手拭い。代表的な踊りや動物がイラストされている。