文字を持たなかった昭和449 困難な時代(8)八方ふさがり
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。
あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい時代を迎えた頃のことを書きつつある。ミヨ子たちのような専業農家は現金収入が限られる一方で、支出の抑制には限界があること、しかし農村ならではのつきあいから交際費は出ていくことを述べた。高校生だった娘の二三四(わたし)は、ブランドもののソックスの破れを繕って履き、クラスメートに笑われたエピソードも。いずれも楽しい内容ではなく、この先も楽しい話にはなりそうもない。
当時の農作業、つまり家業の状況を振り返ってみると、四季折々の仕事は例年通りに繰り返されていた。春先には田を起こし、田植えをし、夏は田んぼの手入れをして、秋には取り入れる。その合間に、畑に野菜や芋類を植えて収穫する。コメや収量が多い野菜類は農協に出し、収量が少ない野菜は市場へ持って行く。その繰り返しである。
その繰り返しでは、大きな収入が得られないから、ミヨ子が嫁いできた頃はミカンを、そのあとはスイカを、そしてキュウリを、と新たな経営に挑んできた〈196〉。しかしいずれも、収穫が始まって数年すると他の産地との競合が始まり、別の作物に転換する、という繰り返しだった。その挙句が、ハウスキュウリの失敗である。
長男の和明は、就職して勤務先が支給する宿舎住まいになっていた。コメと季節の作物に、ミヨ子がパート勤めでもして若干の現金収入を補填すれば、一家3人が食べる分と最低限の現金支出はなんとかなったかもしれない。しかし、妻がパートに出ることを、夫の二夫(つぎお。父)は認めなかった。まして、親が一代で手に入れた田畑や山林をすべて引き継いだい一人息子の自分が、その田畑を耕さず外で働くなど、プライドも面子も丸潰れだと思っていただろう。
つまるところ、収入と支出のバランスがもともととれていなかったわけだ。
そこへ、ハウスキュウリの負債が重くのしかかった。コメと、集中的に大量に植えているわけでもない季節の野菜を売った程度の収入では、返済のメドは立たなかい。一方で、現金で出ていく支出はどうしても発生する。
この時期、ミヨ子たち一家の家計は八方ふさがりだったと言っていい。たまたま自給できる田畑があったから、飢えずにはいられた。極端に言えばそういう状況でもあった。
〈195〉ミカン山の開墾は「三十八(開墾1)」、「三十九(開墾2)」、スイカ栽培は「(1)山大」~「(37)スイカ畑のその後」、ハウスキュウリは「キュウリ栽培へ」~「ハウスキュウリ(28)夢の跡」などで述べている。