文字を持たなかった昭和 二百十二(藁その三、食べる)
藁の使い方など(集める、敷く・結ぶ)について、さらに続ける。
「食べる」と言っても人間ではない。家畜だ。もっとも子供の頃もいまも、二三四(わたし)は牛以外に藁を食べる家畜を知らないのではあるが。
昭和の中ごろから後半にかけて、ミヨ子(母)たちは牛を飼うことがあった。常に飼っていたわけではない。想像なのだが、子牛を買う経済的余裕があるか、なにかのきっかけがあって買ったとき、「とにかく育てておけばいずれ売れるから」という理由だったのではないだろうか。
そのあたりの「経営的なこと」を、二夫(父)は子供たちに話してはくれなかったし、子供たちも現実に起きていることに大きな疑問は持たず、起きたことはそのまま受け入れた。典型的な昭和の亭主関白だった二夫は、子供たちだけでなく妻のミヨ子にも事前に相談しなかったかもしれない。
ある日納屋の奥の方――不定期に牛を飼うため、ここは牛を繋いでおく場所ではあった――に、小ぶりの牛が繋がれている。その日から、牛の餌を用意する日々が始まる。
牛に最も多く食べさせるのは草だったが、その次くらいが藁だったと思う。藁は「藁切り」で、主に二夫が切った。藁切りは、二三四の学生時代や、まだオフィスでも手作業が多く残っていた会社員時代に、紙を重ねて切るときの「裁断機」に似ていた。もちろん裁断機よりはるかに大型の、大きな刃の下に藁の束を置いて、10センチくらいの長さに切っていくのだ。効率よく餌を作るには力がいるので、二夫が切っていたのだと思う。
草と藁、たまにサツマイモ、野菜。
子供だった二三四は、牛の餌とはそういうものか、と思っていたが、乾いた藁は牛も食べづらそうに見えた。
最近読んだ『日本のコメ問題』〈130〉に、稲作に代わる田んぼの利用法として飼料用稲の栽培について書かれていた。それによれば稲を飼料として使う場合、稲自体についた酵母を利用して発酵させるらしい。牛の立場から見ればいかにもおいしそうだ。翻って刻んだ藁では、味のない煎餅を食べるように、もそもそして食べにくかっただろう。
なお本項のテーマは藁なので、牛の飼育そのものの様子についてはまた改めて書きたい。
〈130〉小川真如著、中公新書。noteに途中までの感想を掲載。