文字を持たなかった昭和377 ハウスキュウリ(26)挫折

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところは昭和50年代前半新たに取り組んだハウスキュウリを取り上げてきた。植えつけ手入れ収穫、やがてキュウリの生長スピードに収穫が追いつかなくなっていた状況が続いたうえ、思うに任せない状況がいくつか出来する中、ミヨ子が農薬中毒になってしまったところまで書いた(前々回前回)。

 ビニールハウスの中だけでなく、またキュウリだけでなく、ミヨ子はおよそすべての農薬に反応するようになってしまい、少なくともハウスキュウリはやめざるを得なくなった。

 農協の指導を受けたパイロット事業として、多額の投資をして始めたであろうハウスキュウリを、3年も経たずにやめてしまう決断をすることは、夫の二夫(つぎお。父)にとってはまさに断腸の思いだっただろう。もともとが地域の農家の代表者のような立ち位置で、農協の役員や若手の指導もしてきた人である。面子を失うのも明らかだった。

 しかし、これまで述べてきたように、ハウスキュウリを始めてからの状況は必ずしも、というよりはっきり順調ではなかった。早晩手放すときが来るのは、客観的には自明だったとも言える。

 「キュウリをやめて、ハウスは手放す」と二夫の口から明確に聞かされた記憶は二三四(わたし)にはない。体調を崩しがちになっていたミヨ子が
「もうキュウリは続けられないだろうね」
と誰に言うともなく呟くのを聞いたぐらいだ。

 高2になっても相変わらずキュウリに振り回されるような生活が続く中、母親の体調が思わしくなくなり、この先どうなるんだろうと不安な気分に覆われていた二三四には、これでひと区切りつく、という考えがまずやってきた。

 しかし続いて、あのビニールハウスにかけた――「投資」という言葉は全然身近ではなかった。近隣の農家にも、そんな表現をする人はいなかった――お金は、いったいどのくらいで、それをどうするのだろう、という新たな不安が頭をもたげてきた。「子供の分際」で何ができるわけでもないし、そもそもいくらかけて始めた事業か知らされてもいなかったが、何棟ものビニールハウス、それに合わせて導入した暖房用の設備、暖房のために重油を焚いた期間などをざっと考えただけでも、膨大な金額であることは想像に難くなかった。

 収穫が続いている間ですら、今でいうコスト割れの状態だったのに、やめてしまったら借金しか残らないだろうに、いったいどうなるのだろう。
「ぜーーんぶ、借金だからね」
ハウスキュウリを始めるときも、始めてからも、ミヨ子は口癖のように言っていた。

「いったいいくら借りてるの」
二三四がこわごわ聞いたことがある。
「さぁ……。父ちゃんが全部自分で手続きをしたし、詳しくは教えてもらってないけど、何百万円だろうね。それに、利子がつく*」
ミヨ子はいつも力なく呟いた。

*鹿児島弁では「ぢがちっ」。「利がつく」の意で「り」が転訛したもの(ラ行のダ行化)。
例:農協はぢが 多(うわ)かでねぇ。→農協(の融資)は利息が多い(高い)からねぇ。
《参考》
鹿児島弁ネット辞典(鹿児島弁辞典) (kagoshimaben-kentei.com)
 

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