文字を持たなかった昭和368 ハウスキュウリ(17)摘んでも摘んでも

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところは昭和50年代前半新たに取り組んだハウスキュウリについて述べており、労働力としての当時の家族構成から、苗の植えつけ手入れの概要収穫の様子などについても述べた。人手が足りない中、高校に進学したばかりの二三四(わたし)が、始めたばかりの部活を断念せざるを得なかったことも。

 二三四は、ふだんは晩ご飯のあとにキュウリの選別作業を手伝うくらいだったが、まだ寒い時期に重油を焚いて温度を上げていた時期より、外気温が上がってきてキュウリの生長が速くなっていることは、二夫(つぎお。父)たちが収穫して運んできたキュウリの量の増え方を見れば明らかだった。

 週末や休日には家族総出でビニールハウスへ行った。と言っても二三四が加わるだけだが。たいていはミヨ子たちが軽トラックで先に出る。出がけにミヨ子は
「洗濯物を干して、10時頃お茶を持ってきてね」
と二三四に声をかける。

 二三四はまず、ミヨ子が回しておいた洗濯機から洗濯物を取り出して物干竿に吊るす。それからお茶をいれるためのお湯を沸かしポットに詰め、台所にある漬け物やお菓子を見繕って持って行く。ビニールハウスまでは徒歩でも15分くらい、ビニールハウスの外の畦道でお茶を用意したら両親に声をかける。15分ほどいっしょにお茶を飲むと、二三四も鋏を持ってキュウリの収穫を手伝った。

 収穫の時期ができるだけずれるよう、キュウリは畝単位で植えつけの時期を変えてはあったが、開花はあくまで花の都合である。収穫が終わったはずの株に新たな実が下がっていたりで、なかなか計算どおりにはいかない様子だった。

 なによりキュウリの生長は速い。広いビニールハウスの中で、無数とも思えるキュウリがちょうど「摘み頃」になっていた。「商品価値」で書いたような高く売れるサイズのキュウリを優先して摘む。たまに「もうちょっとかな」と思えるサイズで躊躇していると、二夫が
「明日にはLになってるから、もう摘んでおけ」
と声をかけてきた。大きくなると商品価値が下がるだけでなく、重くなるので扱いが面倒なのだ。

 そのへんの判断はもちろん二夫が正確だが、なにぶん毎日大量に収穫しているので、ミヨ子もだいぶ慣れてきた様子だった。

 キュウリは際限なく実をつけ、すごい勢いで生長していった。この株にはもう摘み頃のキュウリはないかな、と思っても葉っぱの陰に実が隠れていたりして、摘んでも摘んでも作業は終わらないような気がした。

《主な参考》
【施設栽培】ハウスできゅうり栽培!促成栽培・抑制栽培の時期やポイント | minorasu(ミノラス) - 農業経営の課題を解決するメディア (basf.co.jp)

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