文字を持たなかった明治―吉太郎51 戸主の変更
明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。
昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持ち、妻ハル(祖母)、ひと粒種の男児・二夫(つぎお。父)と三人暮らしの吉太郎は、働き者であると同時に相当な倹約家だった。ぜいたくとは無縁、楽しみと言えば煙管(キセル)で一服するくらい、最大の楽しみは何と言っても一人息子の成長だったが、無学の吉太郎は、息子を学校に通わせるより農作業を覚えさせるほうがはるかに役に立つ気がしていた。
二夫の進学をそろそろ意識し始めた昭和13(1938)年。前年の支那事変から日本は中国との戦争状態に入っていたが、吉太郎の暮らしにはそれほどの変化はなかった。それより、一族にとって重要な変化が訪れていた。
これまでの吉太郎の物語の中で、除籍謄本を元に吉太郎の一族の変遷を述べてきた。現状でたどれる最も古い謄本を便宜上【戸籍一】とし、順に【戸籍二】、【戸籍三】と辿った〈267〉。吉太郎の妻ハルの婚姻・入籍の届出をするのは【戸籍三】の中で、である。
【戸籍三】の戸主は、吉太郎きょうだいの三男・庄太郎(明治4年生れ)であり、他のきょうだい、及び弟たちの妻や子も、その戸籍の成員としてぶら下がる形になっていた。もちろん、「婚姻」した妹たちは「除籍」されて相手の男性側の戸籍に組み込まれていった。
その戸主の庄太郎が亡くなったのだ。謄本の庄太郎記載部分によれば「昭和拾参年拾月貮拾五日午後九時本籍ニ於テ死亡 同居者松島藤一届出 同月貮拾六日受附」(昭和13年10月25日午後9時本籍において死亡 同居者松島藤一届出 同月26日受付)、そして「昭和拾四年貮月四日 松島藤一ノ家督相續届出アリタルニ因リ本戸籍ヲ抹消ス」(昭和14年2月4日 松島藤一の家督相続届出ありたるに因り 本戸籍を抹消す)とある。
庄太郎の死因まではわからない。ただ、死亡時満67歳、当時としてはそこそこ長寿の部類だっただろう。一族は、この時点で戸籍に記載されている人だけで20人近くいるので、親族が揃えばけっこうな規模の葬儀が執り行われたことは想像に難くない。そもそも冠婚葬祭は当時の庶民にとってお互いの関係を深めるうえでも極めて重要だったから、遠戚や地域の人々含め多数の参列があったことだろう。
庄太郎の死亡を届け出た藤一は庄太郎の長男、明治41(1908)年生れである。庄太郎亡きあとの家督は当然のように藤一が継ぎ、新たな戸籍謄本(【戸籍四】とする)では藤一が戸主となっている。
興味深いのは、藤一の家督相続が確定するまで庄太郎の戸籍が抹消されていないことだが、そこは手続き上のタイムラグに過ぎず、相続で揉めたりしたわけでもないと思われる。
いずれにしても、庄太郎の弟で五男の吉太郎に、家督はおろか何かを相続する権利はなく、そんな話もなかっただろう。そもそも吉太郎は、実質的にはとっくに独立した家庭生活を営んでいたのだから。
逆に言えば、一族の戸主はあくまで前戸主の長男であり、吉太郎とその妻子は戸籍の中ではいち成員に過ぎず、新しい戸主の下にぶら下がる形にならざるを得なかった、ともいえる。
〈267〉【戸籍一】【戸籍二】は「吉太郎15 大家族①」で、【戸籍三】は「吉太郎23 新しい戸主」でそれぞれ初出。
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