文字を持たなかった昭和477 困難な時代(36)土木作業に出る①決断
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。
あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい生活を送った時期について書いている。家計は八方ふさがり、家庭内の雰囲気は重く気づまりだったこと、娘には高校卒業後地元で就職して家計を助けてほしいという両親の希望に反して、当の二三四(わたし)は仕送りを受けない方法で県外の大学に進学したこと、夫婦ふたりの暮しはあまり会話もなかったことなどを述べた。
夫婦だけの生活で支出は多少減ったものの収入増が見込めなければ、ハウスキュウリの負債を減らしていくことはできない。ふたつ前の「田んぼを手放す」で書いたとおり、たまたまほしいという会社があって田んぼを1枚だけ売ったが、1枚売った程度では借金返済の大きな助けにはならない。だいたいそんな「幸運」が何度も起きるわけではない。
一方で、当たり前だが返済が遅くなるほど利息は膨らんでいく。日々の農作業を繰り返しながら細々と返済するのには限界が来ていた。
それが具体的にいつ頃だったか二三四ははっきりとは思い出せない。だが、夫の二夫(つぎお。父)はついに大きな決断をした。
「石油備蓄基地建設の作業に出る」
それは、マグロ漁港が盛んな北隣のK市の、海岸近くに地下石油備蓄基地を造るという国の事業だった。周辺の建設や土木関係の業者が入札した結果、ミヨ子たちが住む町の建設業者も参入することになった(規模から言っておそらく複数の業者の連合体だと思われる)。二夫はその業者に雇われる形で、土木作業に携わることに決めたのだ。
すでに家を出ていた二三四は、話がきた経緯、雇用形態や待遇などを詳しく聞いたことはない。が、最初は日雇いの、いわゆる「土方(どかた)」に近い形だったと思われる。朝から夕方までの勤務だが土曜日は半ドン〈205〉、日祝は休みだから農作業ができないわけではない。ほかの兼業農家と同じだと思えばいい。二夫がいない日中でも、簡単な農作業ならミヨ子が続けられる。これなら田んぼや畑を手放す必要はない。
ただ一点、土方をあまり立派な仕事だと見ていなかった二夫にとって、自分がその仕事に就くことはけして喜ばしくなかったはずだし、世間の目も気になっただろうが、背に腹は代えられない。事態はそこまで切迫してもいた。
なにより、肉体労働ではあるがその分「実入り(収入)」はいい。二夫は体には自信があった。固定収入があれば借金返済の目途は立ってくる。50代半ばの決断に二夫は自分を奮い立たせた。
〈205〉昭和後期まで、ほとんどの職場や学校で土曜日午前中は就業、授業が行われていた。企業が先行する形で段階的に週休2日が普及し、公務員に導入されたのは1992(平成4)年、その後学校にも広がった。
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