文字を持たなかった昭和416 おしゃれ(12) 緑のスカート
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。
これまでは、ミヨ子の生い立ち、嫁ぎ先の農家(わたしの生家)での生活や農作業、たまに季節の行事などについて述べたが、ここらで趣向を変えおしゃれをテーマにすることにして、ふだん着としてのモンペや上に着る服、足元、姉さんかぶり、農作業用帽子や帽子に続き、「毛糸」と呼んでいたニット製品、中でも印象的だった「チョッキ」とカーディガン、そしてブラウスなど、よそ行きにしていた服について書いた。時期は概ね昭和40年代後半から50年代前半のことだ。
よそ行きの流れで書きとめておきたいのは、緑色のスカートだ。
これもまた、ミヨ子がいつ頃どこで買ったものかよくわからない。よく考えれば、一般庶民がおしゃれとしての既製服を買うようになるのは、戦後ある程度経ってからのことなので、もしかしたらミヨ子が佐賀の紡績工場勤務だった娘時代、工場の近くの洋品店で仕立ててもらったものかもしれないし、工場勤めを辞め鹿児島に戻ってから、お裁縫が上手な人に縫ってもらったものかもしれない。それは前項のブラウスも同じだ。
スカートはセミタイトで、ウェストは芯を入れて別に縫ってあった。最近のスカートはウェストに切り替えがないものも多いが、ウェストはベルト状に作って別に縫い付けるのがある時代までは主流だったと思う。
腰回りはわりとゆったり仕立ててあり、全体のラインもすとんとしていて、うしろのスリットもあまり深くなかった。娘時代のミヨ子は(結婚してからもだが)ふっくらしていたので、スカートも余裕のあるデザインにしたのではないだろうか。
生地は厚くはなかったが素材はウールだった気がする。黒にも見える深い緑色で、縦に黄色の細い線が織り込んであった。ウェストの部分は生地を縦に裁断して、ラインが横にはいるようデザインされていた。
このスカートをミヨ子がよそ行きとして着ていた姿を、二三四(わたし)は見た覚えがない。結婚し子供を3人産んで〈184〉体型がよりふっくらして、ことにウェスト周りがまったく変ってしまったので、ある時期以降は全然着なくなったのだ。実際ミヨ子がこのスカートを出して
「せっかく作ったけど、もうウェストが入らないからねぇ」
と言っていたのを覚えている。だから二三四はこのスカートの存在を知っていたのだ。
じつはこのスカートも、前項のブラウス同様、後年会社勤めを始めた、当時の言い方をすればOLの仲間入りをした二三四のワードローブに加わった。
ただし、背丈は同じくらいでも若かりしころのミヨ子より二三四はちょっとだけ細めだった、ということだろう。スカートはウェストも腰回りもゆるかったので、二三四は当時持っていたポータブルミシンを使って、ウェストと身幅を詰めた。そして、ミヨ子のお下がりのブラウスに合わせて会社に着て行った。
あのスカートもどこかのタイミングで処分したのだったか。ブラウス同様思い出せないのが残念だ。
〈184〉最初の子は死産だったため、子供は兄妹のふたりきょうだいだ。死産については「四十四(初めての子供)」に書いた。