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書評『静かな基隆港 埠頭労働者たちの昼と夜』
台北から電車で1時間弱の基隆(キールン)だが、台湾好きでも基隆(港)を訪れた人はそう多くないのではないだろうか。台湾好きを自認する私も駅で写真を撮った記憶があるが、それも曖昧だ。
『静かな基隆港 埠頭労働者たちの昼と夜』では、かつて(と言っていいと思う)台湾はもとよりアジアを代表する世界的港湾都市だった基隆で、昔なら荷役、現代で言えばガントリークレーン操作、トレーラー運転などそれぞれの時代を代表する最前線の作業に従事してきた男たちやその周辺を追っている。
基隆は国際貨物港として隆盛を極め、やがて衰退していくが、男たちの境遇も同じような経過を辿る。そして最後にたどり着いた家庭には居場所がなく、人生のよりどころもまたない――と言うのが、一般的なパターンであるように読み取れる。
心理カウンセラーでもある著者は基隆における男性の自殺率の高さに注目し、基隆とそこに生きる人々に何が起きたのかを知るべく、長期間滞在し多くの人々に寄り添いつつ話を聞いた。その集大成が本書だ。
内容は、いまや日本人の多くから好感されている「台湾」のイメージ――明るい、人も気候も温かい、やさしい、フレンドリー、グルメ、トロピカルフルーツ、ハイテクでは世界をリードしている、などなど――からはかけ離れている。かなりの台湾好きでも手にとりづらいジャンルだろうし、読み進めても楽しい気持ちにはあまりなれない、というのが率直なところだ。
では本書の内容が、本の帯にある「悲哀のエスノグラフィー」の「悲哀」という一語に集約されるかというと、必ずしもそうではないだろう。第5章のタイトル「彼らはわたしたちである」には強く惹かれたのだが、彼らの悲哀には救いがないわけではない。
裏返せば、彼らに起こったことは、わたしたちにいずれ来るかもしれない(来つつある、あるいはもう来ている)と同時に、わたしたちはその状況に、備え、抗い、生き延びる手段があるということでもあるからだ。
などと書くと、なにやら難しい書物のように思えるが、けして難解ではない。むしろ非常に読みやすい。
作者が聞き取りを行った人々(本文中では匿名化され、集約化されている)のそれぞれに異なるストーリーは、まるでよくできた短編小説を読んでいるかのように、心にすっと沁みてくる。違う国の港町の、それほど一般的でない業界で生きる人々の仕事と暮らしなのに、近所の商店街のシーンのようでもある。日本語として違和感がないだけでなくイメージを膨らませやすいのは、作者と訳者の人柄と学究への真摯な姿勢によるものかもしれない。
ことに、専門が台湾史である訳者は、日々膨大な書籍や史料(中国語原書を含む)を読みこなし、研究と活発な執筆活動を続けているらしい。その蓄積と発露がこの訳書(の日本語)を高度なものにしているのだろう。
それにしても、これだけ日本と台湾の関係が広く深く展開し、台湾の情報も多く入ってきているのに、台湾をより踏み込んで知ろうとする動きが日本側でさほど強くないように思えるのは惜しいことだ。明るさ、やさしさ、楽しさ、それらの背景でもある多文化、多民族性を認め享受はしていても、歴史やその重層性について語られるこが日本において相対的に少ないのは、残念だと常々感じている。
台湾はその地理的特性からも、歴史や外界の影響を強く受けてきた。その過程で多くの「悲劇」も生まれた。本書に書かれていることは、ある意味において台湾にあまたある歴史の悲劇のひとつかもしれない。だが、グローバル化が進み世界がますます縮小していくいま、その悲劇は海を隔てた隣人のものに止まらない。そのことを、日本人はもっと自覚すべきだと思う。
なぜなら、基隆の港湾労働者を翻弄してきたと本書が指摘する新自由主義に、日本(人)もどっぷりと浸かっており、かつその動きに大きく影響されているのだから。そして、やはり本書が指摘する「接続」と「切断」、つまりひとつの世界的な経済構造は局地的にも唐突に人々を巻き込み、用がなくなると勝手に人々から離れて(捨てて)いく状況は、いつでもどこでも起こり得るのだから。
ところで、一般の日本人にとってあまりなじみのない基隆だが、日本統治時代は台湾へのゲートウェイだった。その近現代の歩みが巻末の年表にまとめられている(p181~183)。この簡潔な年表は歴史研究者としての訳者の面目躍如だと感じる。訳注も、平易で読みやすいが情報量はじつに多い。訳者が台湾やその歴史に関して、どれだけの知識の蓄積と分析を行ってきたかが察せられる。ある程度台湾を知っている人にとっても、一種の情報源として大いに参考になるだろう。
何より、訳者解題部分だけでも十分に「読ませ」てもらえる。この個所は版元のみすず書房のホームページに全文が掲載されているので、解題から入り、実際に本書を手に取ってみることをお勧めしたい。
久しぶりの書評、というか読書感想だ。かなり考えたつもりだが、本書の文章の完成度の高さに気後れしている。それでも「価値ある本」だと思うので拙文ながら紹介しておきたい。
※以下は 、版元「みすず書房サイト」より
https://www.msz.co.jp/book/detail/09729/
原題:靜寂工人 碼頭的日與夜
著者 魏明毅: 1971年、台湾生まれ。心理カウンセラー。長年にわたりソーシャルワーカーの指導に携わる。2008年、新たに人類学を学ぶため、仕事を辞め、清華大学人類学研究所へ入学。修士論文をもとに書き上げた本書で、台湾で最も栄誉ある文学賞とされる金鼎獎(第41回)、2017年台北国際ブックフェア大獎(非小説部門)を受賞。2023年には、カウンセラーとしての日々を綴った《受苦的倒影:一個苦難工作者的田野備忘錄》(台北:春山出版、2023)でOpenbook好書獎「年度生活書」を受賞した。
訳者 黒羽夏彦:1974年生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。出版社勤務を経て、2014年より台南市在住。現在、国立成功大学大学院歴史学研究科博士課程在籍。南台科技大学応用日本語学科非常勤講師。専門は台湾史。共著に『台湾を知るための72章』(赤松美和子・若松大祐編、明石書店、2022)。訳書に魏明毅『静かな基隆港――埠頭労働者たちの昼と夜』(みすず書房、2024)。