文字を持たなかった昭和444 困難な時代(3)現金収入

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 前々項からは、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい時代を迎えた頃のことを書き始めた。楽しい内容にはなりそうもないことを予告しておく。

 前項でまとめたとおり、ミヨ子の夫・二夫(つぎお。父)は鹿児島の、ことに農村の、しかも一家の主らしく「ワンマン」で権威的だった。ハウスキュウリで家計が傾いたことへの対策を示してくれれば、ミヨ子も、高校生だった娘の二三四(ふみよ)もついて行ったはずだが、なにも方向性が示されないまま生活は続いていった。

 過去のnoteのどこかの項にも書いたし、言うまでもないことだが、農家は作物を出荷して初めて収入を得られる。東北などの雪国のように、耕作ができない時期が「農閑期」として明確にあれば、それを出稼ぎなど現金収入を得る期間に充てることも不自然ではない。むしろ「どの農家でもやっている」ことだ。

 しかし比較的温暖で、一年中なんらかの耕作が可能な鹿児島(のような地域)においては、一年を季節で区切って収入を得る方法を分けることは現実的ではない。そもそも、冬場でも設備を工夫すればキュウリのような夏野菜が栽培できる、という理由からハウスキュウリを始めたのだから。

 この時代には、二夫たち夫婦のような専業農家はどんどん減っており、一家が暮らす小さな集落に専業農家は数えるほどもなかった。地域の農村地帯でも農家を名乗る家のほとんどは兼業で、能力と運にめぐまれれば、夫は役場や農協といった手堅い職場に勤め、力仕事は週末と有休をやりくりしてかたづけた。そこまで恵まれていなくても、固定給が確保できる地場の会社に勤めながら、田畑を耕す道もあった。固定の勤務先がない場合は、土方――いまは土木あるいは建築作業員と呼ぶのだろうか――などの日雇いに近い仕事を断続的にしながら、田畑は維持するという選択もあった。夫に現金収入の手段はないが、妻のほうがパートとして働く例も増えていた。

 だが、ミヨ子たちの場合これらのいずれでもなかった。

 逆に、専業農家で時間に融通が利くと見られて、地域や学校のさまざまな「役」を持ちかけられることも多かった。当然無報酬な一方で、時間と手間は取られた。

 つまるところ、入ってくるお金とその時期は極めて限られていた。

※2023/11/28付で投稿した本項は、操作ミスで削除してしまいました。同じ内容で再投稿します。


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