最近のミヨ子さん 介護施設での面会

 昭和の鹿児島の農村。昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴ってきた。たまにミヨ子さんの近況をメモ代わりに書いている。

 少し前にバタバタと介護施設(グループホーム)への入所が決まり、ついに入所の日がやってきて、同行したお嫁さん(義姉)が当日の様子を動画で送ってくれた。画面に映る比較的開放的な空間に少し安堵したものの、わたしのほうは、時間が経つにつれミヨ子さんへの申し訳ない気持ちが募っていた。

 入所から5日が経った平日、お嫁さんからメッセージとともに新しい動画が送られてきた。
「面会に行きました。『膝折れ』してしまうので車椅子生活のようです。ご飯はお代わりするくらい完食でスタッフは『ありがたい』と言ってます」

 「膝折れ」とは歩行中に膝が「かっくん(がくん)」となってしまう現象だ。動画には、座った車椅子をスタッフさんに押してもらって施設の入り口にミヨ子さんが現れ、息子のカズアキさん(兄)とお嫁さんが声をかける様子、持参したお菓子を食べさせる様子――などが収められている。計7本、時間にすると約15分の動画を再生するのはちょっとした作業ではあるが、それだけの動画を撮影して送ってくれたお嫁さんに感謝する。

 動画は再生しないと内容がわからないので順番に見ていく。

 わたしが驚いたのは、現れたばかりのミヨ子さんの表情だ。たぶんスタッフさんから「息子さんたちが来ましたよ」と説明されていただろうに、自分が置かれた状況を把握していない表情、つまり「ここはどこ? 目の前にいる人たちは誰?」という顔をしていたのだ。

 カズアキさんが「いけんな?(どう?)」と声をかけたあと、「オレがわかる?」と訊いた。ミヨ子さんはちょっと間をおいて
「ヨシオ?」
と答えた。

 ヨシオは、ミヨ子さんのすぐ下の弟の名前だ。熊本で働き家庭を持ち、もう何年も前に亡くなった。高齢になっていたミヨ子さんは葬儀に行かなかったが、お香典は届けたはずだ。そんな現実も時空も飛び越えて、ミヨ子さんはきょうだいたちと暮らしていた子供の頃の記憶を、目の前の自分の子供に投影しているのだ。

 正直なところ、ショックだった。

 カズアキさんは「ヨシオは母ちゃんの弟だよ」と笑い、次にお嫁さんを指して「こっちは?」と訊く。ミヨ子さんはどうしても思い出せない。思い出しているのだろうが、名前が出て来ない。――と、わたしは思いたい。10年ほども同居して毎日ご飯を作ってくれ、直近の数年はそれこそトイレでの介助や粗相したときの始末までしてくれたお嫁さんを、忘れてしまったとは考えたくない。

 いくつもの、しかし簡単な会話の途中で、スタッフさんがカズアキさんに「ごきょうだいは?」と訊いた。「妹が東京のほうにいます」と答えたので、スタッフさんが「娘さんのお名前は?」とミヨ子さんに訊く。わたしは固唾を飲んで動画の画面を見守る。結局ミヨ子さんは名前を思い出せず、カズアキさんが「二三四でしょ」と補足した。

 これまたショックだった。というより、ミヨ子さんが兄夫婦の名前を思い出せなかったこと以上に堪えた。

 動画の中では、施設の中での過ごし方、ほかの入居者さんとはどうか、ご飯はおいしいかなどの会話が続く。しかし、兄夫婦が質問してもミヨ子さんはすぐに答えられず、「〇〇なんでしょ?」などと誘導尋問ぽい追加質問をされて初めて、うなずいたり、簡単な返事をしたりする程度だ。

 むしろ、車椅子を支えているスタッフさんが代わりに返事することのほうが多い。それは「確かな情報」かもしれないが、「お母さんがいまどんな状態なのか」がわからずもやもやする。

 もやもやしたのは、面会しているのが施設の中ではなく入口で、おそらく通りに面したそこは車の往来がけっこう多く、会話がうまく聞き取れないことにもあった。

 中に入れてもらえないのかしら? 談話室みたいなところはないのかな?

 わたしの中で、なにかが急速に膨れ上がっていた。

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