文字を持たなかった昭和284 ミカンからポンカンへ(6)高級フルーツ
昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。
昭和40年代初め頃価格が下がったミカンに代え、接ぎ木してポンカン栽培に切り替えた状況について述べることにして、(1)背景から順に、(5)収穫の様子まで書いた。
収穫し「キャリ」と呼ぶプラスチック製のカゴに入れたポンカンは、耕運機に積み込んで帰った。行きは耕運機の荷台に乗せてもらった二三四(わたし)たち子供は、運転席に詰めて座った。運転席と行ってもドアや囲いはなく横長の座席があるだけなので、揺れて落ちないように、二夫(つぎお。父)にできるだけくっついて座った。ミヨ子は、晩ご飯の支度のために一足早く帰ることが多かった。歩けば30分ほどの道のりだ。
当初高級フルーツ扱いだったポンカンは、出荷前もていねいに扱った。先に二夫が姿や果皮の状態を確かめ、出荷に値すると判断した実はひとつひとつ手拭いで拭いて汚れを取った。汚れ拭きは夜でもできるので、明るいと言えない電球の下で、家族みんなで拭いた。体力的に畑に出るのは厳しくなっていた姑のハルも手伝った。もちろん一晩では終わらないので幾晩かに分け、外の作業ができない雨の日にすることもあった。子供たちはたいがいの時間に休めばよかったが、ミヨ子は「切りのいいところまで」と、手拭いを持った手を延々と動かした。
とりわけ出来のいい実は、化粧箱に詰めることがあった。ただ詰めるのではなく、いまでいうロゴを印刷したセロハンで、実をひとつひとつ包むのだ。ポンカンはヘタの部分が飛び出しているので、お尻を上にして詰める。お尻の真中にセロハンの中央が来るように当て、ロゴのデザインがきれいに見えるように包むのは、子供には難しかった。というより、高級品の包装作業を子供に任せてはくれなかった。
そこでミヨ子の出番、と言いたいところだが、こういう細かい作業は二夫のほうが得意だった。セロハンに印字された「高級ポンカン」や地元の農協のロゴが、化粧箱の中で規則的に並んでいく。
ミヨ子と子供たちは「これをどこの人が買うんだろうね」と囁きあった。その人は、大きな街の大きな「カイシャ」で働く人に違いないとも。でも、その街も「カイシャ」もその人の姿も、うまく想像できなかった。
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