文字を持たなかった昭和357 ハウスキュウリ(6)場所
昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。
新たに、昭和50年代前半新たに取り組んだハウスキュウリについて述べることにして、労働力の状況として当時の家族構成や、高校卒業を控えた長男の和明(兄)が地元での就職が決まらず、兼業的に家の農業を手伝う見通しが立たなくなるという「計算外」が生じたこと、そもそもどんなふうに経営転換を決めたかなどを書いてきた。
新たな事業としてハウスキュウリをやることは決まった(らしい)。ではどこでやるか。
これまで何度となく書いてきているように、家屋敷や田畑はすべて、舅の吉太郎(祖父)が何もなところからコツコツ買い広げてきたもので、同じ場所にドーンと広い田んぼあるいは畑があるわけではなく、大小の土地そして山があちこちに散らばっていた。山はともかく、スイカを促成栽培していた畑のように条件のいい場所もあった。
だから、中3になっていた二三四(わたし)などはてっきり、どこかの畑を、場合によっては田んぼを1枚くらい潰して、そこにハウスを建てるのだとばかり思い込んでいた。もしかするとミヨ子も、計画の詳細を夫の二夫(つぎお。父)から聞かされるまで、そう思っていたかもしれない。
ハウスキュウリを始めることが家庭内で「既定路線」としてようやく定着した頃、二夫が言った。
「ハウスは〇〇〇に建てる。農協の横、川の堤防の脇だ」
大人たちが話す地名は地域で昔から使われてきた呼び名が多く、住居表示で使われる地名地番とはもちろん、集落の名前とも違う、通称みたいなものが多かった。和明はどうだったか知らないが、二三四にはなかなか覚えられなかった。二三四にとって父親が発した地名は、ほとんど聞きなれない名称だった。
「農協の横、川の堤防の脇」と言われればだいたいの見当はついたが、地域の農協は家からの通学路上にはなく、学校と逆の方向にあったから、子供にとってはよほどのことがなければ行く場所ではなかった。そしてその辺りは、田んぼではあるが「うち」の田んぼではないはずだった。毎年田植えと稲刈りには必ず行くから、田んぼの場所くらいは二三四も全部知っていた。家からも、遠くはないが歩いて15分くらいかかる。
なんであそこへ? 借地代もかかるだろうに。
二三四は思ったし、ミヨ子も思っただろう。誰もが感じた「しっくり来ない感」は、先々に漠然としたなにかを抱かせた。あるいは、二夫がいちばんしっくり来ていなかったかもしれない。しかし、「営農指導」する農協との話はもう進んでいた。