ひとやすみ 『息』――著者インタビューを読んで
しばらく書いていないが、本の読後感をたまーーにnoteに綴っている。今回は、読後感ではなく著者インタビューを読んで納得したことについて。
『息』は、編集者として働きながら小説を書き続けている小池水音氏の、初の小説集である。氏は海外文学にあるような「ありふれたものに包摂されるきらめきを、そのまま取り出したような作品」を「自分でも書くことができたら」と考えているそうだ。
表題作である作品は、著者の実体験を下敷きに、喘息持ちの姉(語り手のわたし)、同じく喘息持ちだった弟の自死、その影響から立ち直れない父親、憔悴しながら家庭を守る母親、と「それぞれに傷と後悔を内に抱えて生きてきた、残された者の10年とその後」が綴られているらしい。
本来作品をちゃんと読んでからここ(note)に書くべきなのだが、読む前に書いてしまったのは、著者の次の言葉による。
「記憶や想像力は脆弱だけれど、それでしか亡くなった人には到達しえない。苦しい時間が嵩としてたまることで初めて透る光、みたいなものが見られたら」
幾度か書いているように、noteを始めた動機は「自分を表現する術もその発想すらも持たなかった身近な人たちの、生きてきた証を残したい」という思いであり、手始めに母のことを中心に、細々と書き続けている。母はまだ(戸籍上は)93歳で存命だが、わたしに命をつないでくれた人たち、つまりご先祖様やその周囲にいた人たちのほとんどは亡くなった。
言葉を換えれば、noteに綴ることによってわたしは日々、半ば死者との対話を続けていることにもなる。それは単なる追憶、思い出話の蒸し返しかもしれないと思う。いま書いている「ハウスキュウリ」のように、美しい郷愁には属さない、苦くて痛い記憶にあえて触れていくこともあり、何の意味があるのかとも考える。
しかし、上に引用した著者の言葉で、自分の発想と行為に新たな意味づけができ、何かの肯定を受けられた気持ちになった。
著者は編集者として働きながら、毎日就寝前に「原稿用紙2枚分は書こうと」執筆を続けているが、「翌日には書いたものを全部なかったことにする繰り返し」らしい。記事にあるように、呼吸するごとく、小さな物語でも書き続ければ、苦しい記憶と「苦しい時間が嵩としてたまることで初めて透る光、みたいなものが見られ」るかもしれない。
もちろんそれが目的ではないけれども。