文字を持たなかった昭和 帰省余話(2024秋 36) まとめ

 昭和5(1930)年生れで今年(2024)6月末に介護施設に入所したミヨ子さん(母)の様子を見にこの秋帰省した際のいろいろを綴った。短いふるさと再訪(625)、施設(グループホーム)についてのメモ代わりの記録(2628)、施設での面会の様子(2930)、中でも特別だった、わたしの幼なじみが来てくれた面会(3133)、施設の居室(個室)で散髪したこと(3435)と、1週間ばかりの期間についてずいぶん書いてしまった。郷里へ行く準備の話(15)も含めると計35回と、時間もかかった。

 書き足りないことがないわけではないのだが一連のお話にはここで区切りをつけることにして、総括のようなものを書いておきたいと思う。

 前回ミヨ子さんに会ったの、今年(2024)の5月、その頃は息子のカズアキさん(兄)家族と同居し、まだ自分で歩けて、食欲も旺盛だった。それからあっという間に施設(グループホーム)に入り、入院して骨と皮のようになり(幸い1カ月ほどで戻ってこられたが)、環境もミヨ子さん自身も様変わりした。

 施設に入ったことで、ミヨ子さんの生活はある意味平穏、安全になった。同居していた家族は介護や認知機能低下による言動に悩まされずにすむようにもなった。ただそれは、なにか大事なものと引き換えに手に入ったもの、手渡されたもののような気持ちがぬぐえない。

 半年ぶりに会ったミヨ子さんは、もちろんミヨ子さんなのだけれど、もう母親としてのミヨ子さんの要素はずいぶん薄まっている印象を受けた。だから母親のように思えないわけではなく、母親だからこそ会いたいのだけれど、このもどかしさはどう表現していいのかわからない。

 ミヨ子さんは、言ってみれば単調な生活、変化が少ない環境と人間関係の中で、物理的に生きているだけのように、わたしには見えてしまう。言葉が出て来ないのはしかたがないとして、表情も乏しくなった。

 それでも、ある瞬間に、破顔一笑と言っていいような笑顔を見せた。それは、長年住み慣れた家に連れて帰ったときだったり、わたしの幼なじみが別れ際にハグしてくれたときだったりした。わたしにはどうしても、ミヨ子さんを住み慣れた、あるいはつきあいがあった人のいる環境に置いておいてあげたかった、という気持ちを捨てられないでいる。

 もちろん、いろいろな意味で、それは困難というより、ほぼ不可能だったこともわかっているが。

 とても印象に残っていることがある。何回目かの施設での面会のとき、わたしはブルージーンズを穿いていった。下したてのとき自転車で転んでしまい、膝の一部が少し擦れてしまったものだった。破れてはいないが、おいおいそこから綻びるだろうことが見えていて、わたし自身気にはなっていた。

 ミヨ子さんは車椅子に、わたしはベッドに腰掛けて、差し入れのお菓子やペットボトルの温かいお茶を勧めていたとき。ミヨ子さんはジーンズの薄くなったところを指さして「ひっちゃぶるっよな*」(破れてしまいそうだね)」と言ったのだった。

 ミヨ子さんはとても細やかだ。いろいろなものや人を静かにしかし仔細に観察していて、あとで回想したりさり気なく指摘したりすることが、昔からあった。若い頃のわたしは、そういう指摘を鬱陶しいと感じることも、またあった。

 ジーンズの擦れを指摘されたとき、若い頃なら「わかってるわよ!」と反発したかもしれないが、わたしはなんとも懐かしいような、「ああ、変わっていないんだな」という気持ちになった。変わったとすれば、昔のようにそれを「何かの折にさりげなく」言うことはできなくなったということだろう。

 この先は、こんな機会も減っていくに違いない。寂しいことではある。しかし、ミヨ子さんの本質は変わらないはずだ。ミヨ子さんが母親であるという事実も、そこから受けたさまざまな恩も変わらないし、得難いものとしてわたしの中でむしろ重くなっていくのだろうと思う。

*「ひっちゃぶるっ」は鹿児島弁。「破れる」が変化した「やぶるっ」に強調の接頭後「ひっ」がつき、促音のt音が後ろの「破れる」に連続して拗音化したと思われる。末尾が促音で終わるのも一種の強調だろう。愛用の「鹿児島弁辞典」では「けやぶるっ」、「け」は強調の接頭語とあるが、わたしの郷里では「ひっちゃぶるっ」の方を多用していたと思う。


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