文字を持たなかった昭和 帰省余話(2024秋 9) 田の神様(たのかんさぁ)
昭和5(1930)年生まれで介護施設入所中のミヨ子さん(母)の様子を見に帰省し、数時間ながら外出させ郷里へ連れて行ったお話を書いている。入所後初めて施設(グループホーム)を訪ねて再会した当日、車椅子をトランクに積んでレンタカーを走らせた。有料道路を下りふるさとに近づいたところでミヨ子さんはそこの地名を正確に言い、わが家の跡では車を降りたそうな様子を見せた。
あとの行程のために先を急がざるを得なかったが、60年以上も住んでいたこの場所を久しぶりに訪れたミヨ子さんがそわそわする気持ちはよく解る。だいたい有料道路を下りた辺りで「島内(しまうち)」という地名が甦ったあたりから、ミヨ子さんの中のなにかが活性化してきている雰囲気があった。自分が住んでいた場所に戻ってきて、それがますます活発になっていることをわたしは感じていた。
元々は、席を早めに確保しゆっくり食事するために昼食場所へ直行するつもりだったが、わたしとツレはここでつい「サービス」してしまった。家の庭を名残惜しそうに見やるミヨ子さんに集落を見せてあげたくなったのだ。
集落には内周を一回りする道があり、ほぼ真ん中には、いまは人に貸しているわが家の田んぼもある。ひと巡りしたあとは広い農道に出た。
「わが家(え)へんの田の神さぁを見け行っでな」(わが家あたりの田の神様を見に行こうよ)
わたしは後部座席からミヨ子さんに声をかけた。
ここには集落の田んぼの守り神、鹿児島弁で言うところの「田の神さぁ(たのかんさぁ)」がいらっしゃる。鹿児島(南九州)の農村はほぼ集落ごとにこの「田の神さぁ」を祀っている。他の地方で辻々にお地蔵様を祀るような感じだろうか。
秋、新嘗祭(いまなら勤労感謝の日)に合わせ、家々は新米で餅を搗いてこの神様にお供えし、収穫への感謝をささげる「田の神講(たのかんこ)」と呼ぶ年中行事もある〈285〉。餅はただ供えるのではなく、家ごとに藁苞(わらづと)に包み縄で結んで神様に背負わせるので、神様は集落の戸数分の藁苞を背負っていたものだった。
そんな集落全体での風習はだんだん廃れ、ミヨ子さんのふるさとの集落では、「壮年会」と称するがじつは初老の男性たちが集まって餅を搗くことで、かろうじて「田の神講」の行事を維持している。じつはミヨ子さんの息子カズアキさん(兄)も、実家跡で家庭菜園を営む関係でこの壮年会のメンバーに加わっているのだが、直前の週末に壮年会で餅を搗いて「田の神講」をすませたばかりだと言うことも聞き及んでいた。
「わが家(え)へんの田の神さぁが、やっぱい一番(いっばん)もぞかいやっどなぁ」(うちらの田の神様がやっぱりいちばんかわいくていらっしゃるよね)
とミヨ子さんに語り掛ける。これは昔から集落の人々が言っていたことで、じっさい他の集落の神様よりふっくらとして愛嬌があり、実感を伴うものだった(もちろん身びいきもある)。
ミヨ子さんの横顔を窺うとニコニコしている。「田の神さぁ」が立つ場所を久しぶりに訪れて、現役の農家の主婦として「田の神講」に餅を搗き、藁苞に包んでいた頃のことが甦ってきているはずだ。たとえ認知機能が低下していても、人の記憶とはそういうものだろうと、わたしは強く思う。
〈285〉「田の神さぁ」「田の神講」については「文字を持たなかった昭和 百五十六(行事食にサツマイモ)」と「同 二百二十(田の神講)」で比較的詳しく述べているので、ご参照ください。