昭和の養生 富山の煎じ薬
前項「昭和の看病――夏風邪で思ったこと」を書いていて思い出したこと。
わたしが子供の頃は風邪をひくと富山の置き薬の箱の中にある煎じ薬を飲まされた、薬は真綿にくるんであって、煎じて飲むのがいちばんだがお湯を注いで飲むこともでき、わが家ではお湯を注ぐことが多かった、と述べた。
この薬は本来、血行促進、とくに女性のためのもののようだった。パッケージにも日本髪と和服の女性が描かれ、効能には「血の道の病によい」などと書かれていて、わが家では――たぶん置き薬を置いているどの家でも――「血の薬」と呼んでいた。5歳くらいのわたしは「血の道」が何かはよくわらかなくても、それが指す意味はなんとなくわかったから、この薬を飲むのはあまり好きでなかった。もっとも、好きでないいちばんの理由は、いかにも薬臭いその匂いだったかもしれない。
薬は何回か使った。目安は「味がしなくなるまで」。真綿はたまに破れて、中の薬がお湯と混ざった。湯飲みの底のそれらは、木っ端を砕いたもののように見えた。そのへんの木を砕いて飲むとこんな味になるのだろうと、子供心に思ったものだ。
「血の薬」をくるむ材料は、真綿からやがて不織布になった。中身も「木っ端」ではなくもっと細かく挽いたような状態になっていた。ということを、まれにパッケージが破れて中身が流れ出てしまうことがあったから知っている。
やがて、日本人の生活が、薬を煎じるどころか、湯飲みやお湯を用意するのさえ手間に感じるようになったということだろう、置き薬の箱から「血の薬」はなくなった。箱の中は、テレビのCМでも見かけるような錠剤やカプセル、顆粒のものばかりになっていった(ただし、CМに出てくる商品名とは微妙に違っていた)。
もっと言えば、置き薬そのものをだんだん使わなくなっていた。医療制度が整えられ、病院で薬を処方してもらうのが当たり前になったし、交通も流通も便利になりちょっとした市販薬なら手軽に買えるようになった。わたし自身で言えば、成長して多少知識が増え、この伝統的商法で配置される薬はなんとなく「遅れている」と感じ始めてもいた。これは大変な誤解でかつ失礼であったといまは思うのだが、モノを知らない――知ろうとしない、そして知る術を持たない――田舎の子供だったということだ。
富山の置き薬については、母・ミヨ子さんについて綴り始めた頃、若かりしミヨ子さんの結核を直してくれたお医者さんについて述べた項で少し触れている。置き薬が届けられなくなったのは、地域差、家庭差はあろうが、昭和50年代の初め頃、西暦だと1980年頃だったと思う。それまでは地域の人の多くが日常的にお世話になったし、わたし自身けっこうお世話になったクチだ。
鹿児島で「富山どん」と呼ばれていた薬売りとその人たちが置いていく薬(箱)は、昭和の鹿児島の農村生活に密着していた。このテーマは、いずれの機会にちゃんと書きたいと思っている。