文字を持たなかった昭和366 ハウスキュウリ(15)商品価値

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところは昭和50年代前半新たに取り組んだハウスキュウリについて述べており、労働力としての当時の家族構成から、苗の植えつけ手入れの概要などを書き、前項では収穫の様子を述べた。

 収穫の中で触れたように、曲ったキュウリは「商品価値」がない。収穫の手伝いのたびに二三四(わたし)は、ぶら下がっている無数のキュウリが全部まっすぐだったらいいのに、と心から思った。

 栽培を始めて、二夫(つぎお。父)やミヨ子が改めて思い知らされたのは、キュウリはまっすぐなだけではだめで、一定の長さの範囲に収まっていなければ、これまた商品価値が下がる、ということだった。

 いわく、「〇センチから〇センチのMサイズが最も売れ筋」(具体的な長さは忘れてしまった)。それより短く細いSや、長く太くなってしまったLはスーパーなどで売りづらいため、「規格外」として安くなってしまう。出荷するための箱も売れ筋の長さに合わせてあった。曲ったものも含め、規格外のは、キャリーと呼ぶプラスチックの箱に入れ、重さ単位で安く売り渡される。

 何回も書くが、キュウリの成長は速い。収穫が少し遅れるとあっという間に「規格外」に転落する。曲っていてもいけない。

 高校を卒業した長男の和明(兄)が就職先の宿舎に入り、働き手は二夫とミヨ子、時々二三四が手伝いに入る、という体制が始まった昭和53(1978)年の春。昼間に収穫され夕方家に運ばれるキュウリを箱詰めする手伝いを、二三四は毎晩のように繰り返しながら「規格外ってなんだよ。工場で作るわけじゃあるまいし、味は同じなのに」と胸の中で一人ごちていた。

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