文字を持たなかった昭和 八十六(百ばば)
ミヨ子が女の子を産んで、戸惑い気味の舅・吉太郎が赤ん坊を前につい口にした一言がある。
「百婆(ばば)が生まれた!」
「百ばば」とは百歳の長寿を保った吉太郎の母のことだ。長男でない吉太郎は若い頃に独立していたが、本家はすぐ近くにあり、長命なおばあさんを、近隣の人びとは敬愛を込めて「百ばば」と呼んでいた。その「百ばば」に、生まれてきた女の子が似ている、と強く思ったのである。
百歳を超えるお年寄りはいまでは86,000人以上いる〈76〉が、昭和の後半でも百歳以上は珍しく、まして「百ばば」の時代――大正から昭和のはじめ――では極めて稀だった。
このため長寿のお祝いとして天皇陛下から「真綿」を下賜された、という記事が地元の新聞に掲載されたこともあるほどだ。たしか見出しは「百二歳の長命婆さん」で、小見出しに「天皇陛下から真綿を賜る」とあった。「長命」には旧仮名遣いで「ちやうめい」と振り仮名が振ってあった。
ちなみに「真綿」とは蚕の糸で打った綿のことで、木綿の綿に比べて格段に軽くて保温性が高い。いまなら高級羽毛布団といったところか。それも「天皇陛下から賜った」のである。おそらく百歳を超える人は当時全国に何人もおらず、何かのお祝いのとき――天皇誕生日に当たる天長節かもしれない――「長寿の庶民にもお祝いを」ということで道府県にお達しがあり〈77〉、自治体が調べて報告したのではないだろうか。
吉太郎は新聞をとっていなかったので――そもそもほとんど字が読めなかった――、誰かが保存しておいた記事をあとになってから借り受け、写真に撮って引き伸ばしたと思われる。記事は麗々しく額に入れて、仏壇の上の鴨居に飾ってあった。
記事の写真の中で「百ばば」は、百二歳――数え年だと思う――にしてはしっかりとしていて、真綿を前にきちんと座り、少しだけ口元を緩めていた。年齢が年齢だからか、お世辞にも美人には見えなかった。どちらかというと面長で、かわいらしいおばあさんというより、おじいさんのように見えた。もっとも「百ばば」が生まれたのは江戸時代、髷を結うのが習慣で、髪を常に結いあげていただろうから、額のあたりが多少抜け上がっていてもおかしくはない。
「百ばば」似と言われた女の赤ん坊は、物心つくようになってからそのエピソードを聞かされ、その後鴨居の写真を見上げるたびに「この人に似てると言われても…」と複雑な想いを抱くことになった。
もっとも、もともとあまり口数が多くなく、どちらかというとぶっきらぼうだった吉太郎としては、極めて長命で「真綿を賜った」ほど運がよかった母親を引き合いに出すことで、女の孫の健やかな成長を願う気持ちをこめたのかもしれない。
〈76〉2021年9月時点での日本の100歳以上の人口は、86,510人(厚生労働省統計)
〈77〉東京に都制が敷かれたのは昭和18(1943)年。