文字を持たなかった昭和421 おしゃれ(17) 下着(シミーズ)

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 これまでは、ミヨ子の生い立ち、嫁ぎ先の農家(わたしの生家)での生活や農作業、たまに季節の行事などについて述べてきた。ここらで趣向を変えおしゃれをテーマにすることにして、モンペ姉さんかぶり農作業用帽子などのふだん着に続き、「毛糸」と呼んでいたニット製品の中でも印象的だった「チョッキ」カーディガンブラウスなど、よそ行きにしていた服について書いた。よそ行きを着たミヨ子との思い出も(スカートの裾お遊戯のおかあさんたち)。概ね昭和40年代後半から50年代前半のことだ。

 ここで、下着について触れておきたい。

 農作業で汗まみれになりがちなふだん着のときは、ミヨ子の下着は綿の「実用一点張り」だった。冬場は綿の短い「シミーズ」の上に、保温のためにネルの下着やズボン下(いわゆるパッチ)を重ねることはあった。

 シミーズ はもともと「シュミーズ」だが、言い慣らされるうちにシミーズになったようだ。ミヨ子たちはさらに縮めて「シミズ」と呼んだ。本来ワンピースの下などに着る薄手のシュミーズだが、農村の女性たちに普及するうちに、汗を吸う薄手の綿の下着になった。ワンピースはもちろんスカートもあまり穿かないから、丈も短めになり、いまでいえばやや長めのタンクトップのような感じだった。より清涼感があるようにということか、夏用には縮緬のようなクレープ生地のものもあった。こうなるとシュミーズとはべつの下着とすら言えた。

 外出のときは、「万一*」を考えて、比較的きれいな下着をつける、というのがミヨ子の哲学だった。「万一」というのは、体調を崩したり事故に遭ったりして病院に担ぎ込まれるような事態らしく、診察台や手術台に乗せられたとき見苦しい下着では恥ずかしい、ということのようだった。

 幼い頃はその哲学に疑問をもたなかった二三四(わたし)も、中学生ぐらいになると「そんなこと、ほんとうに『万一』でしょ」と内心思ったが、口には出さなかった。しかし、大人になってから近所でお使いする程度のときと電車で出かけるときの下着は使い分けているのだから、ミヨ子の教育効果はあったと言わねばなるまい。

*鹿児島弁では「しやんとっ(とき)」。「もしやのとき」の短縮系だろうか。鹿児島弁ネット辞典には見当たらない。ミヨ子は「しや、ちゅうときな~~」(しや、というときには~~)という言い方もよくしていた。
《参考》
【公式】鹿児島弁ネット辞典(鹿児島弁辞典)

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