文字を持たなかった昭和 二百二十九(暖房その七、掘りごたつ)
昭和30~40年頃の鹿児島の農村。母ミヨ子たちが暖房(燃料)に使っていたものを順次書いてきている。鹿児島は暖かいから暖房はいらないのでは? というのは誤解で、冬はけっこう寒い。ことに、ミヨ子たちが住んでいた集落がある東シナ海側は、黒潮の通り道である薩摩半島南端や大隅半島に比べると寒く、暖を取る道具がそれなりに必要だった。
練炭のくだりでは、「倹約家(締まり屋ともいう)である舅の吉太郎や姑のハルが元気だった頃は、練炭をメインに使うことは少なかったと思う」と書いたが、吉太郎が亡くなってからの昭和40年代後半以降は、炭、練炭、ガス、電気を用途別に使い分けるハイブリッドな(?)生活が始まり、定着した。
中でも画期的と思われたのは、掘りごたつである。
囲炉裏が健在だった頃は、家の中で火を焚き煙も出るため、煙を逃がす構造が求められた。だが吉太郎の死去後しばらくした頃、囲炉裏をなくして掘りごたつにする改装が行われた。ときは行動経済成長期、夫の二夫(つぎお)が「いまさら囲炉裏でもないだろう」と考えたのだろうが、ほかの家も次々に、囲炉裏を無くして家の密閉度を高める改装に取り組み始めた頃でもあった。
小学校低学年だった二三四(わたし)の記憶はやや曖昧なのだが、囲炉裏を切ってあった部屋は床を貼り直して畳を敷き、広い土間の一部には新たに床を貼り――つまり部屋を増やし――、その一角を凹型の立方に掘りこんでコンクリートで固め、上に座卓を置けるようにしたと思う。土間はもともと台所に続いていたので、主婦のミヨ子にとっては食卓代わりの掘りごたつまで食事を運ぶのも便利だった。
掘りごたつの主な熱源は練炭だった。練炭コンロの通気口を絞って火力を弱くしたうえで中に置いた。コンロを置く場所は、こたつの中の床からさらに低くしてあった。それでもコンロの火が靴下や足に当たるかもしれないので、子供がこたつに足を入れるときは足は壁側に引っ込めておくよう、親たちは口を酸っぱくして注意した。
あとで考えれば、燃えているものを中に入れて上からこたつ布団を被せるなんて、危険極まりないようだが、こたつの「穴」は四辺が大きく深さもあったから、上に載せた座卓を焼くことはなかった。
むしろ中の空間が大きいため、子供たちの隠れ場所にはうってつけだった。かくれんぼとまでいかなくても、わざと姿を隠したいときは、こたつの中――火が起こしてないときが多かったが――に隠れることもあった。小さい子なら二人か三人は入れたので、二三四は近所に住んでいたいとこたちと3人でこたつの中に潜って遊んだ記憶がある。
子供たちのそんな遊び方を見かけると、二夫もミヨ子も「練炭で酔ってしまうよ!」と厳しく嗜めた。この場合の「酔う」とは、軽い一酸化炭素中毒にかかって気分が悪くなることを指した。