文字を持たなかった昭和359 ハウスキュウリ(8)構造
昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。
新たに、昭和50年代前半新たに取り組んだハウスキュウリについて述べることにして、労働力としての当時の家族構成や、長男の和明(兄)は地元での就職が決まらず労働力として当てにできなくなったこと、ビニールハウスを建てることにした場所とその規模などを書いてきた。
では、ハウスの構造はと言えば、外側はビニールシート張りなのでその意味ではビニールハウスなのだが、「規模」で「棟と言っても支柱があるだけで隣とは隔たっておらず、内部の土地は体育館のようにつながっていた」と述べたように、ひとつの棟(ハウス)ごとに独立した構造ではなかった。
つまり――内部は柱が「棟」単位に規則的に並んではいるが、柱と柱をつなぐ「壁」はなく、全体が見渡せるような状態、と言えばいいのか。もちろん周囲はビニールシートの「壁」で覆われている。屋根は、「棟」単位で三角にしつらえてある。
屋根が三角なのには理由があった。温度調整のため、屋根を覆ったビニールシートを手で開閉できるようになっていたのだ。と言っても窓があるわけではない。三角の底辺側の角、隣の「棟」との間には20センチほどの幅の平たい板が渡してあり、作業する人がここを通って、ビニールシートの「裾」を開閉する仕組みだ。つまり、温度調節の一部は人力に頼っていた。
待って。三角屋根の間(屋根のいちばん低い部分)を人が通る? 前項で
「人が背をかがめずに出入りし、作業できる高さがあった」と書いたのでは? となると高さは低いところでも2メートル近くあったのでは?
そうです。ふつうに地面に立てば、大人の男性でもいちばん低いところに手が届くかどうかだった。しかし、ハウスのすぐ脇には用水路が流れていた。水路を構成するコンクリート製のU字溝の、ハウス側の縁に立って手を伸ばせば、屋根の上に登れたのだ。(足を掛けるちょっとした足場ぐらいは、ハウスの側面につけてあったかもしれない)
登れると言っても要領と腕の力が必要なので、ビニールハウスの開閉をするのは専ら二夫(つぎお。父)の仕事になった。